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第201話 雨宿り

やがて舟は岸へと戻った。


舟子が櫓を引き上げる。


紗世は差し出された手を借りて舟を降りた。


足元の砂利が小さく鳴る。


「楽しかったぁ。」


素直な感想だった。


瀬田川の風も景色も心地良かった。


先程の出来事だけは胸に引っ掛かっていたが、それでも良い時間だったと思う。


「それは何よりでございます。」


舟子が人の良さそうな笑みを浮かべる。


その時だった。


舟子がふと空を見上げた。


「……おや。」


「どうした?」


惟成が尋ねる。


舟子は西の空を眺めながら目を細めた。


「今は晴れておりますが。」


そう言って遠くを指差す。


「半刻もせぬうちに雨になりますな。」


紗世も空を見上げた。


青空だった。


雲はあるが、どれも白い。


「え? 本当に?」


「ええ。」


舟子は頷く。


「長く川におりますと分かるのでございます。」


惟成も空を見た。


確かに西の彼方には、わずかに色の違う雲が見える。


しかし、今すぐ雨が降るようには思えない。


「当たるかなぁ。」


紗世が首を傾げる。


舟子は笑った。


「外れることもございます。」


だがその顔には妙な自信があった。



石山寺の境内へ戻った頃。


風が変わった。


涼しい。


いや、冷たい。


木々の葉がざわりと揺れる。


真砂が空を見上げた。


「あら。」


先程までの青空が少しずつ雲に覆われ始めている。


「本当に降りそうですね。」


「まさか。」


紗世が言った直後だった。


ぽつり。


頬に冷たいものが落ちる。


「……あ。」


ぽつ。


ぽつぽつ。


ぽつぽつぽつ。


「降ってきた。」


言い終わる前に雨粒は増え始めた。


従者達が慌ただしく荷をまとめ始める。


「牛車へ!」


誰かが声を上げる。


惟成は紗世の前へ出た。


「急ぐぞ。」


「うん。」



牛車へ辿り着く頃には雨脚はさらに強くなっていた。


屋根を激しく叩く雨音が響く。


ざああああ、と滝のような音が辺りを満たしている。


「すごい……。」


紗世は御簾越しに外を見た。


地面はみるみる黒く濡れていく。


水たまりもでき始めていた。


「本降りですね。」


真砂が呟く。


その時。


従者の一人が惟成のもとへ駆け寄った。


「惟成様。」


「どうした。」


「逢坂関の道でございますが…」


惟成の表情が引き締まる。


「雨がここまで降りますと危のうございます。」


「……ぬかるむか。」


「はい。」


従者は頷いた。


「ただでさえ牛車には厳しい道でございます。日が暮れればなおさら。」


惟成は黙って雨を見た。


激しい雨だった。


しばらくで止みそうにはない。



やがて相談が始まった。


従者達の意見はほぼ一致していた。


今から出立するのは危険。


牛が足を取られる可能性がある。


車輪がぬかるみに嵌まるかもしれない。


まして姫君を乗せている。


無理をする理由はなかった。


「宿を探すべきかと。」


年長の従者が言った。


惟成はしばらく考えた後、静かに頷いた。


「そうしよう。」



その話を聞いた紗世は目を瞬いた。


「え?」


「今夜は石山寺近くで泊まる。」


「泊まる?」


「帰れぬわけではない。」


惟成は言った。


「だが危険を冒す必要もない。」


紗世はしばらくぽかんとしていた。


日帰りのつもりだった。


まさか泊まりになるとは思わない。


だが、窓の外では激しい雨が降り続いている。


確かにこれで山道を越えるのは怖そうだ。


「……旅行みたい。」


ぽつりと呟く。


「元から旅行のようなものだろう。」


惟成が返した。


紗世は思わず笑った。


その頃には、従者達が近くの宿坊や宿の手配に動き始めていた。




────


石山寺の宿坊へ案内された頃には、空はすっかり暮れていた。


幸い雨脚は次第に弱まり、夕餉の支度が整う頃には小雨になっていた。


濡れた木々の匂いが夜気に混じる。


従者達もようやく落ち着きを取り戻し、それぞれの宿所へ引き上げていった。



夕餉の席。


紗世は箸を持ったまま何度目かの欠伸を噛み殺していた。


「眠い……。」


ぽつりと漏らす。


「当然でございます。」


真砂が呆れた顔をした。


「昨夜はほとんどお休みにならず、お弁当作りをなさっていたのでしょう?」


「うぅ……。」


否定できない。


さらに今日は早朝から出立し、石山寺までの長旅。


参拝し、境内を歩き回り、舟遊びまでした。


疲れない方がおかしい。


「ほら、鮎が冷めますよ。」


「食べる……。」


そう言いながらも瞼は今にも閉じそうだった。


その様子を見ていた惟成が口を開く。


「真砂。」


「はい。」


「夕餉が済んだら早めに休ませろ。」


真砂は即座に頷いた。


「そのつもりでございます。」


「まだ眠くない……。」


「駄目だ。」

「駄目です。」


真砂と惟成の声が綺麗に重なった。


紗世は不満そうに唇を尖らせたが、その直後に大きな欠伸をした。


惟成は思わず視線を逸らした。


笑いそうになったのである。



夕餉を終える頃には雨も止んでいた。


雲の切れ間から月明かりが覗いている。


濡れた庭石が淡く光り、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。


紗世はほとんど真砂に連れられるように部屋へ戻る。


「まだ起きていたい……。」


「先程から三度目でございます。」


「だって旅行だし……。」


「明日もございます。」


寝支度を整える頃には返事も曖昧になっていた。


布団へ入る。


そして数瞬後には規則正しい寝息が聞こえ始めた。


真砂は苦笑する。


「本当に子供のようなお方です。」


そう呟いて灯火を落とした。




⸻夜更け


宿坊は静まり返っていた。


昼間の雨が嘘のようだった。


遠くで虫の声が聞こえる。


時折、軒先から雫が落ちる音だけが静寂を揺らしていた。


真砂はふと目を覚ました。


「……っ……。」


微かな声が聞こえたからだ。


隣を見る。


紗世が苦しそうに眉を寄せていた。


額には汗が滲んでいる。


「姫様?」


真砂は身を起こした。


紗世は眠ったままだ。


だが様子がおかしい。


呼吸が浅い。


苦しげに何かを呟いている。


「姫様。」


肩を揺する。


反応はない。


「姫様。」


もう一度呼ぶ。


それでも目を開けない。


むしろ苦しそうに首を振った。


「……ごめんなさい……。」


掠れた声。


真砂の背筋が冷たくなる。


「姫様!」


今度は強く肩を揺する。


それでも起きない。


まるで深い何かに囚われているようだった。



真砂は立ち上がった。


迷っている暇はない。


急いで上衣を羽織る。


廊下へ出る。


月明かりが差し込む回廊はひどく静かだった。


濡れた庭から土の匂いが漂ってくる。


真砂は足早に男達の宿所へ向かった。


「惟成様。」


返事はない。


「惟成様!」


切羽詰まった声が静寂を破る。


すぐに妻戸の向こうで気配が動いた。


戸が開く。


現れた惟成は既に目を覚ましていた。


真砂の様子を見た瞬間、その表情が変わる。


「何かあったのか?」


「姫様が……。」


真砂の声は震えていた。


「うなされておられるのです。」


「夢か。」


「違います。」


即座に首を振る。


「何度呼んでも起きないのです。」


惟成の目が鋭くなる。


「起きない?」


「肩を揺すっても、呼びかけても……。」


真砂は唇を噛んだ。


「様子がおかしいのです。」


その言葉を聞くや否や、既に廊下に踏み出していた。


「案内しろ。」


短く告げる。


真砂は頷いた。


二人は急ぎ足で廊下を進む。


月明かりの差す静かな宿坊の中、不吉な胸騒ぎだけが確かにそこにあった。

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