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第200話 川面に映る顔

昼食を終えた頃には、日も高くなっていた。


木々の間を吹き抜ける風が心地よい。


紗世は川辺へ歩み寄り、瀬田川を見下ろした。


陽光を受けた水面がきらきらと輝いている。


絶えず流れる水の音。


時折聞こえる鳥の声。


京とはまるで違う景色だった。


「綺麗……。」


思わず呟く。


すると少し下流を、一艘の舟がゆっくりと進んでいった。


舟子が櫓を漕ぎ、参詣客らしき人々が川面の景色を楽しんでいる。


その様子を見た瞬間、紗世の目が輝いた。


「あれ乗りたい。」


後ろにいた真砂が即座に反応した。


「嫌な予感がいたします。」


「なんで。」


「姫様が目を輝かせているからです。」


「失礼だなぁ。」


失礼ではなかった。


長い付き合いである。


真砂には分かる。


あの顔は何か思いついた顔だ。


紗世はくるりと振り返った。


「惟成。」


「なんだ。」


「舟。」


「見れば分かる。」


「乗りたい。」


即答だった。


惟成は川を見た。


舟を見る。


紗世を見る。


再び舟を見る。


「……。」


「その沈黙なに。」


「考えている。」


「何を。」


「お前を舟に乗せてよいか。」


「子供じゃないんだけど。」


「知っている。」


問題はそこではない。


石山寺の周辺は比較的穏やかとはいえ、川は川である。


万が一ということもある。


惟成は川面へ視線を向けた。


流れは落ち着いている。


風も強くない。


天候も良い。


危険は少ない。


「短時間なら。」


「本当!?」


紗世の顔がぱっと明るくなる。


その勢いに真砂が頭を抱えた。


「惟成様。」


「何だ。」


「甘くございませんか。」


「そうかもしれん。」


否定しなかった。



程なくして小ぶりな舟が用意された。


紗世は嬉しそうに川辺へ向かう。


ところが舟の前で立ち止まった。


「……あれ?」


「どうした。」


「真砂は?」


「私は乗りません。」


真砂は即答した。


「え?」


「私はこちらで待っております。」


「なんで?」


「舟はあまり得意ではございません。」


それは半分本当で半分嘘だった。


真砂は舟が苦手なのではない。


空気を読むのが上手いのである。


「でも、惟成様がおります。」


真砂はさらりと言った。


「それに従者も近くにおりますゆえ。」


紗世は首を傾げた。


惟成は何も言わない。


真砂は内心で小さくため息をつく。


(少しは気付いてくださいませ。)



やがて紗世は舟へ乗り込んだ。


舟子が手を貸す。


続いて惟成も乗る。


小舟には三人だけだった。


紗世。


惟成。


そして舟子。


櫓が静かに水を掻く。


舟が岸を離れた。


瀬田川の流れへゆっくりと乗り出す。


「わぁ……。」


思わず声が漏れる。


陸から見る景色とはまるで違った。


風が近い。


水の匂いがする。


川面が太陽を映して揺れている。


遠くには石山寺の伽藍が見えた。


巨大な岩の上に建つ堂宇が、青空を背に堂々とそびえている。


「綺麗…。」


紗世が呟く。


「そうだな。」


珍しく惟成も同意した。


二人並んで川を眺める。


「魚、いるかな?」


紗世は身を乗り出し、川面を覗き込んだ。


「あまり覗き込むな。危ないぞ。」


惟成が短く言う。


「だーいじょうぶだって。」


そう言ってさらに目を凝らす。


瀬田川の水は澄んでいた。


陽光が差し込み、舟の影が揺れている。


その下を魚がすいと泳いでいくのが見えた。


「あ、鮎だ。」


紗世の目が輝く。


「美味しそう。」


惟成が僅かに眉を寄せた。


「……美味しそう、か。」


「うん。」


「可愛いとか、綺麗とかではないのか。」


舟子の肩が小さく揺れた。


どうやら笑いを堪えているらしい。


(……まったく。舟子にまで笑われているではないか。)


惟成は小さく息を吐いた。


当の本人は気にも留めていない。


紗世は川面へ手を伸ばした。


ひやりとした水が指先を包む。


「冷たーい。」


ぱしゃり、と水を弾く。


「気持ちいい。」


無邪気に笑う紗世を見て、惟成の表情は自然と和らいでいた。



やがて紗世は手を止めた。


川面がゆらりと揺れる。


そこには自分の顔が映っている。


はずだった。


だが、揺れる水面の中で、その顔が不自然に歪んだ。


(……え?)


紗世は息を呑む。


水面が静まる。


映った顔がはっきりと輪郭を持つ。


それは自分ではなかった。


烏帽子を戴いた男。


見知らぬ顔ではない。


忘れられるはずのない顔だった。


──鷹丸。


その瞬間。


「っ!」


ガタッ、と身を引いた。


舟が大きく揺れる。


「紗世!」


すかさず惟成の腕が伸びる。


肩を抱き留められ、紗世はようやく我に返った。


「なんだ。どうした。」


惟成が険しい顔で覗き込む。


紗世はもう一度だけ川面を見た。


そこには何もない。


揺れる水と空が映っているだけだった。


「紗世?」


「あ……ううん。」


慌てて笑みを作る。


「急に大きな魚が、手を突いてきたから。」


「魚?」


「びっくりしちゃって。餌と間違われたのかな。」


咄嗟の言い訳だった。


惟成はしばらく紗世を見ていたが、それ以上は追及しなかった。


「舟は少しの体重移動でも揺れる。」


低い声で言う。


「気を付けろ。」


「うん。ごめん。」


紗世は素直に頷いた。


惟成の腕が離れる。


だが胸の鼓動はなかなか収まらなかった。



その後、紗世は大人しく景色を眺めていた。


けれど心は別の場所にあった。


(鷹丸様……。)


思い出した瞬間、胸の奥がちくりと痛む。


川面に映ったあの顔は、本当に鷹丸だったのか。


それとも、自分の記憶が見せた幻だったのか。


分からない。


ただ一つだけ確かなのは――


その名を思い出すたび、胸の奥に沈んだままの感情が静かに疼くことだった。

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