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第199話 石山寺参詣

───石山寺参詣 当日


まだ空が白み始めたばかりの早朝。


四条邸の門前には牛車が用意されていた。


「忘れ物はないか?」


兼成が何度目か分からない確認をする。


「ないよ。」


「本当にか?」


「本当に。」


「干し飯は持ったか?」


「持った。」


「瓢箪は?」


「持った。」


「扇は?」


「持った。」


「なら良い。」


一拍。


「だがやはり供人が少ない。」


「まだ言うの!?」


紗世が叫んだ。


横で真砂が額を押さえる。


「殿、もう出立の刻でございます。」


「分かっておる。」


分かっている顔ではなかった。


惟成は少し離れた場所で馬の轡を確認している。


相変わらず無表情だ。


しかし紗世が視線を向けると、僅かに頷いた。


それだけで少し嬉しくなる。



やがて牛車が動き始めた。


車輪がゆっくりと転がる。


朝の京はまだ静かだった。


見世も行商も開いていない。


行き交う人影もまばらだ。


御簾越しに外を眺めながら紗世は小さく息を吐いた。


「なんだか久しぶりだなぁ。」


「何がです?」


真砂が首を傾げる。


「こういう遠出。」


現代では車で移動することなど珍しくなかった。


けれど平安時代では違う。


邸の外へ出ること自体が一大行事だ。


まして石山寺は京の外。


ちょっとした旅行である。



京の街並みを抜ける頃には日も高くなり始めていた。


惟成は馬で牛車の横を進む。


御簾の隙間から見える横顔は今日も整っていた。


「惟成。」


紗世が呼ぶ。


惟成が馬上から視線を向けた。


「どうした。」


「眠くない?」


「ならない。」


即答だった。


「私は眠い。」


「知っている。」


「なんで?」


「牛車に乗り込んだ時点で欠伸をしていた。」


紗世はぐうの音も出なかった。


真砂がくすくす笑う。



辰の刻(午前八時頃)


途中、小川のほとりで休憩を取った。


牛にも水を飲ませる。


惟成の従者たちが手際よく準備を進める。


兼成が心配したほど大人数ではない。


だが少なすぎるわけでもなく、ちょうど良かった。


「では少し長めに休憩いたしましょう。」


真砂が敷物を広げる。


すると紗世が得意げに風呂敷を取り出した。


「ふふふ。」


「何です?」


真砂が嫌な予感を覚える。


「作ってきました。」


「何をです?」


「朝ご飯。」


沈黙。


惟成がこちらを見る。


真砂も見る。


従者達も見る。


「……全員分?」


「全員分。」


「いつ作ったのですか。」


「昨日の夜。」


「寝不足の原因それではありませんか?」


真砂が呆れた。


紗世は一人一人に小さな包みを渡していく。


包みを開けると、そこには握り飯が二つ、ころんと入っていた。


「握り飯の中にはね、一つは梅を細かくしたもの。もう一つは昆布を細く刻んで煮含めたものが入ってるよ。」


惟成の隣に腰を下ろしながら説明する。


惟成は一つ口に運んだ。


「握り飯が柔らかいな。」


「柔らかいの苦手?」


「いや。」


そう言ってもう一口食べる。


「美味い。」


「それだけ?」


「十分だろう。」


紗世は思わず吹き出した。


「へへ。良かったぁ。ご飯はね、蒸さずに炊いたんだ。火加減が大変で竈を離れられなかったけど。」


紗世のもう片方の隣では、真砂が頬を押さえながら握り飯を味わっている。


少し離れた場所では、牛飼い童や御者、従者達も感嘆の声を上げながら食べていた。


「お昼ご飯のお弁当もあるからね。お昼はおかず付き。」


その言葉に従者達の顔がさらに明るくなる。


貴族の姫君がすることではない。


そう思いながらも、紗世らしい振る舞いに惟成の表情は心なしか和らいでいた。



それから一刻ほど経った頃。


遠くに山並みが見え始めた。


瀬田川の流れが陽光を反射して輝いている。


「綺麗……。」


思わず声が漏れる。


京の街中では見られない景色だった。


風も涼しい。


夏だというのに空気が違う。


惟成も馬上から景色を見ていた。


「もうすぐだ。」


「石山寺?」


「ああ。」


紗世の胸が高鳴る。


前世で訪れたことのある寺。


けれど平安時代の石山寺を見るのは初めてだ。


千年前の石山寺。


紫式部も訪れた石山寺。


その実物が、もうすぐ目の前に現れる。



やがて、巨大な岩山と、その上に建つ伽藍が見えてきた。


瀬田川を見下ろす堂宇。


山の緑。


厳かな空気。


思わず息を呑む。


「……すごい。」


現代で見た石山寺とはまるで違う。


新しく、そして生きている。


参詣者が行き交い、僧たちの姿も見える。


前世で見た石山寺は歴史だった。


だが今、目の前にあるのは歴史になる前の石山寺だ。


千年後に語り継がれる景色の中へ、自分は立とうとしている。


牛車がゆっくりと止まった。


惟成が馬から降りる。


そして御簾の前まで歩いてきた。


「着いた。」


そう言って手を差し出す。


紗世は一瞬だけ迷ったが、その手に自分の手を重ねた。


「うん。」


石山寺参詣が、ようやく始まった。



惟成に手を取られ、牛車から降りる。


足元には巨大な岩。


見上げれば伽藍。


石山寺独特の荘厳な空気が辺りを満たしていた。


「すごい……。」


思わず呟く。


現代で何度か訪れたことはある。


けれど、まるで違った。


新しく、活気に満ちている。


参詣者が絶えず行き交い、僧たちの読経の声が風に乗って聞こえてくる。


千年後には歴史となる景色の中に、自分が立っている。


その事実に胸が高鳴った。


「先に参りましょう。」


真砂に促され、紗世は頷いた。



本堂へ向かう石段を上る。


途中、すれ違う女房たちの姿が目についた。


華やかな衣をまとった姫君らしき一行もいる。


石山寺が女性参詣で賑わう寺であることを改めて実感する。


本堂へ着くと、紗世は自然と背筋を伸ばした。


御前に進み、静かに手を合わせる。


観音様の前に立つと、不思議と心が静かになった。


願い事。


そう言われても困る。


前世では健康や仕事のことを願っていた。


だが今は


(どうしよう。)


平和に暮らしたい。


家族が元気でいてほしい。


それも本心だ。


けれど、ふと隣を見る。


少し離れた場所で惟成が頭を垂れている。


真剣な横顔だった。


胸が少しだけ騒ぐ。


(……いやいや。)


慌てて首を振る。


観音様の前で何を考えているのだ。


結局、


『みんなが幸せでありますように』


とだけ祈った。


それが一番自分らしい気がした。



参拝を終え、本堂を出る。


すると真砂が興味深そうに尋ねた。


「姫様は何をお祈りなさったのです?」


「内緒。」


「なぜでございますか。」


「願い事は言うと叶わなくなるから。」


「そのような話、初めて聞きました。」


真砂が首を傾げる。


紗世は誤魔化すように笑った。


「真砂は?」


「家族の息災でございます。」


「真砂らしい。」


「姫様こそ。」


二人で笑い合う。


その後ろを歩いていた惟成に視線を向ける。


「惟成は?」


「言わん。」


「えっ。」


「人に話すものではない。」


「ずるい。」


「先に内緒と言ったのはお前だ。」


紗世は返す言葉を失った。


真砂が吹き出す。


惟成の口元も僅かに緩んでいた。



昼が近づく頃。


木陰の涼しい場所に敷物を広げる。


「お待たせしました。」


紗世が得意げに風呂敷を広げた。


従者たちの目が一斉に向く。


「本当にあるんですね。」


真砂が感心したように言う。


「あるよ。」


風呂敷の中から現れたのは小ぶりの曲物だった。


中には握り飯のほか、


塩漬けの茄子。


雉の照り焼き


卵焼き


が並んでいる。


「姫様……。」


真砂が額を押さえた。


「これ、全部お作りに?」


「全部。」


「だから昨日寝不足だったのですね。」


「ばれた?」


「ばれます。」


惟成は黙って雉肉を口に運ぶ。


しばらくして一言。


「美味い。」


「本当?」


「ああ。」


紗世の顔がぱっと明るくなる。


その様子を見ていた従者たちも次々に箸を伸ばした。


あちらこちらから感嘆の声が上がる。


牛飼い童などは感激した様子で雉肉を見つめている。


「そんなに?」


「こんな食事、祭の日でも食えません。」


従者の一人が答えた。


紗世は思わず笑った。


風が吹き抜ける。


瀬田川の水面が陽光を受けてきらきらと輝いていた。


石山寺の鐘の音が遠く響く。


穏やかな昼だった。


そして、この昼食の後。


紗世は瀬田川の舟へと興味を向けることになる。

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