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第197話 御息所の甘い夜

───夜・六条御息所邸


「紗世は眠れているのかしら……。でも、眠れたとしても夢見が悪くて疲れてしまうのでしょうね……。」


僅かに熱の残る御帳台の中で、御息所がぽつりと呟いた。


「しかし、眠らねば夢の中へは入っていけませんからね。」


御息所の髪を指で掬いながら、在昌──陰陽頭が答える。


「……在昌様は、紗世に憑いている生霊をどう思われます?」


「和泉殿は心当たりがないと言っていましたが……夢を渡るほど執着が強い。和泉殿が忘れているか、気付いていないだけで、生霊の主は過去に和泉殿と浅からぬ縁があった者ではないかと思います。」


「……あの子は、人を惹き寄せるのよね……。」


「ええ。不思議な子です。」


在昌も静かに頷いた。


「しかし、生霊の主は紗世を強く想っているのでしょうけれど……紗世があんな姿になってしまうのでは……。」


御息所の声音には隠し切れない心配が滲んでいた。


「人の純粋な好意は本来心地良いものです。しかし、それが歪めば厄介なものにもなる。今回の件は、まさにその典型でしょうね。」


在昌は小さく息を吐いた。


「……生霊を飛ばしている方を特定することは、やはり難しいの?」


御息所は在昌の腕の中で顔を上げた。


「現段階では難しいでしょう。しかし、夢の内容が分かれば話は別です。そこに生霊の主へ繋がる手掛かりがある可能性は高い。」


「紗世を夢の中を渡ってまで想う方……。今まで恋文を送っていた殿方の誰か、とか?」


「いや……少なくとも文だけの相手ではないでしょう。」


在昌は静かに首を横へ振った。


「直接会い、言葉を交わし、強く心に残るほどの関係だった者だと思います。」


「それなら候補も絞られそうですけれど……。」


「和泉殿の場合、京だけではありません。和泉国にいた頃の縁もある。」


在昌は御息所の髪をそっと撫でた。


「和泉国で知り合い、兼成殿の異動で離れ離れになった者かもしれない。そうであれば、私達の知らぬ相手が生霊を飛ばしていても不思議ではありません。」


「……そうね。」


御息所も小さく頷く。


しばし沈黙が落ちた。


二人とも紗世のことを案じていた。


やがて在昌は微かに笑った。


「……和泉殿のことは心配ですが。」


そう言って、御息所の頬へ手を添える。


「今夜は、私の腕の中にいる方のことも大切にしなければなりません。」


「……在昌様。」


御息所の頬がほんのりと染まった。


次の瞬間。


「きゃっ……。」


在昌は御息所の体をそっと抱き上げ、自らの上へと乗せた。


「大丈夫です。和泉殿なら。」


穏やかな声。


背に回された腕に少しだけ力がこもる。


もう片方の手が御息所の頬を優しく包んだ。


「御息所様は、本当にお優しい方ですね。」


「そんなこと……。」


言葉は最後まで続かなかった。


「……んっ。」


不意に唇が重なる。


短く離れた唇の隙間から、在昌の掠れた声が落ちた。


「貴女のその優しいところに惹かれて……どうしようもないのです。」


御息所の胸が大きく鳴る。


「……在昌様……。」


再び唇が重なった。


御帳台の内に、ゆっくりと熱が満ちていく。


しばらくして、在昌は額を寄せたまま苦笑した。


「……やはり、和泉殿には明日、朝ゆっくり来てもらえば良かったかな。」


御息所は一瞬きょとんとした後、意味を理解して肩を震わせた。


「まあ……うふふ。」


鈴のような笑い声が響く。


二人の穏やかで甘い時間は、静かな夏の夜の中へ溶けていった。




───明け方・六条御息所邸


御帳台の中は静かだった。


つい先ほどまで、すぐ傍にあった温もりはもうない。


在昌は夜明け前に邸を去った。


それが当然だ。


高貴な姫君の邸に通う殿方は、夜が明ける前に帰る。


昔から変わらぬ作法。


分かっている。


分かっているのに。


御息所はそっと手を伸ばした。


在昌が横たわっていた場所に触れる。


まだ微かに温もりが残っていた。


「……。」


指先が、その温もりをなぞる。


離れてしまったことが寂しいのか。


それとも、次に会える日が待ち遠しいのか。


自分でも分からない。


御息所はゆっくりと目を閉じた。


昨夜のことが思い出される。


優しく名を呼ぶ声。


髪に触れる手。


自分を見つめる眼差し。


そして


『今宵も参ります。』


別れ際に囁かれた言葉。


胸の奥がじんわりと熱くなる。


思えば、不思議なことだった。


東宮妃として生きていた頃、恋とはもっと苦しいものだと思っていた。


失うことを恐れ、立場に縛られ、心を押し殺し続けるものだと。


けれど今は違う。


ただ相手のことを考えるだけで、胸の内が温かくなる。


それは苦しみではなく、穏やかな幸福だった。


御息所は小さく笑った。


「私も、変わったものね……。」


かつての自分なら考えられなかった。


恋をすることを自ら許している。


誰かを想うことを、幸せだと思っている。


それはきっと紗世のおかげでもあった。


『身分があるからって、好きな人を好きになっちゃいけない理由にはなりません!』


あの少女は何度そう言っただろう。


無茶苦茶で


遠慮がなくて


けれど、まっすぐだった。


御息所はくすりと笑う。


「本当に、あの子ったら……。」


その時だった。ふと、昨夜の会話を思い出す。


紗世に憑いているという生霊。


夢を渡る想い。


会いたくても会えない誰か。


御息所の表情が少し曇った。


「紗世……。」


あの子は大丈夫だろうか。


明るく振る舞ってはいたが、顔色は明らかに悪かった。


夢の中で何が起きているのかも分からない。


在昌は大丈夫だと言っていた。


それでも心配だった。


御息所は天井を見上げる。


御簾の向こうが少しずつ明るくなっていく。


京の朝が始まろうとしていた。


「どうか、あの子をお守りください……。」


小さく祈る。


そして、もう一度だけ。


先ほどまで在昌がいた場所へ手を伸ばした。


残っていた温もりは、もうほとんど消えかけていた。


それでも


『今宵も参ります。』


その言葉だけは、不思議なくらい鮮やかに胸に残っていた。


御息所は微笑みながら目を閉じる。


ほんの少しだけ。


次の夜を待ち遠しく思いながら。

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