第196話 デートの約束
紗世が邸へ帰ると、真砂がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「紗世様。惟成様がお待ちです。」
「え!? 惟成? なんで?」
「今朝の紗世様のお顔の話が、当家の使用人から惟成様の邸の使用人へ伝わったようで……。」
真砂は少し苦笑した。
「惟成様もご心配だったのでしょう。」
紗世は慌てて着替えを済ませ、惟成の待つ部屋へ向かった。
するりと御簾の内へ入る。
「朝から顔色が悪いと聞いたが、大丈夫なのか。」
低い声が響いた。
「うん。ちょっと寝不足なだけだよ。」
「……。」
惟成は答えない。
「惟成?」
しばしの沈黙。
そして惟成は、おもむろに立ち上がった。
御簾の前へ進み、膝をつく。
「入るぞ。」
ばさり。
御簾が上がった。
紗世は固まった。
惟成が自分から御簾を上げることなど、普段なら絶対にない。
惟成はそのまま扇を持つ紗世の手へ触れた。
「顔を見せろ。」
静かな声。
扇を持つ手が下ろされる。
「──っ。」
惟成の眉が寄った。
血の気の薄い顔。
目の下の濃い隈。
思った以上に酷い。
「薬師は呼んだのか?」
珍しく焦りを滲ませた声だった。
「大丈夫だよ。今日、陰陽頭様に診てもらったの。」
「何と?」
「寝不足だって。」
「それだけか?」
(鋭いなぁ……。)
紗世は苦笑した。
「うん……それと、生霊だって。」
「生霊!!?」
惟成の表情が一変する。
「でもね、そんなにすぐ危険な状態になるわけじゃないって。」
紗世は陰陽頭から聞いた話を最初から説明した。
夢を渡る生霊。
夢の中で会っていること。
夢の内容を覚えていないこと。
最悪の場合、夢に閉じ込められる可能性があること。
すべて話し終えても、惟成の顔色は晴れなかった。
「……しかし。」
低い声が落ちる。
「最悪の場合、お前は目覚めなくなるのだろう。」
「うん……。」
「ならば十分に危険だ。」
紗世は困ったように笑った。
「でも、そうならないように夢を覚える努力もするし、いざとなったら陰陽頭様もいるから。」
「……そういう問題ではない。」
惟成は小さく息を吐いた。
そして、そっと指先で紗世の頬に触れる。
優しい手だった。
出会ってから変わらない。
傷付けぬように触れる手。
「……生霊を飛ばすほど。」
惟成がぽつりと言った。
「お前に会いたいと思っているのか。」
紗世は目を瞬いた。
惟成の指先が頬を滑り、唇の近くで止まる。
「そこまで執着する者に心当たりはないのか。」
「……男かどうかも、まだ分からないよ。」
紗世は小さな声で答えた。
惟成は即座に言った。
「男だ。」
ぴしゃりと言い切る。
「ええ?」
「女ならそんな理由で生霊など飛ばさぬ。」
「いや、飛ばすかもしれないじゃん。」
「飛ばさぬ。」
「なんで断言できるの。」
「断言できる。」
惟成は真顔だった。
紗世は思わず吹き出した。
「なにそれ。」
しかし惟成は笑わない。
むしろ表情はますます険しくなった。
「少なくとも。」
静かな声。
「その男は、お前を忘れられない。」
紗世は首を傾げる。
「会いたいだけかもしれないよ?」
「違う。」
惟成は即答した。
「会いたいだけなら生霊など飛ばさない。」
その声には妙な確信があった。
「その男は、お前を手放したことを後悔している。」
部屋に静寂が落ちた。
紗世はぽかんとして惟成を見る。
一方の惟成は、自分でもなぜそんな確信があるのか分からないまま、静かに紗世を見つめていた。
返される紗世の視線に気づき、惟成はふと我に返った。
しかし、頬に添えた手は離さない。
少しだけ表情を和らげる。
「……石山寺参詣にでも行くか。」
「……え?」
「約束しただろう。」
低い声が落ちる。
「賀茂の祭の前だったか。夜桜を見ながら――『今度は昼に、ゆっくり出掛けるか』と。」
「あ……。」
紗世は思い出した。
賀茂の祭の警固で惟成が忙しくしていた頃。
落ち着いたら一緒に出掛けようと、確かに言っていた。
「覚えててくれたんだ。」
「忘れるわけがない。」
惟成は小さく苦笑した。
「賀茂の祭が終わってから、随分時間が経ってしまったがな。」
紗世は自分の頬に触れる惟成の手に、そっと手を重ねた。
「うん。行きたい。」
その答えに、惟成の目元が僅かに緩む。
だが、その穏やかな空気は長く続かなかった。
惟成がすっと立ち上がる。
御簾の内から出て、何事もなかったように御簾の前へ座り直した。
その直後――
「こんな夜更けに何用かな!?惟成殿!!」
勢いよく部屋へ入ってきたのは兼成だった。
(さすが惟成。気配に気付いたな。)
紗世は内心で感心する。
惟成は何事もなかったように頭を下げた。
「今朝から姫君の顔色が優れぬと聞き、ご様子を伺いに参りました。」
「そうかそうか!」
兼成は大きく頷く。
「しかし心配には及ばん!この私が帰って来たのでな!姫の顔色もすぐ良くなるであろう!」
(なんで父上が帰ってくると私の顔色が良くなるのよ……。)
紗世は思わず遠い目になった。
ちらりと惟成を見る。
父の勢いに無表情で付き合っている惟成。
だが、紗世と目が合った瞬間だけ――
その表情が少しだけ柔らかくなった。
(えへへ。)
紗世は胸の中で小さく笑う。
(石山寺デートだ。)




