第195話 夢を渡る
「扇を下ろして、しっかり顔を見せてごらん。」
陰陽頭は御息所への挨拶もそこそこに、紗世へそう言った。
(え……? やっぱり私、何かあるの……?)
紗世は不安げに扇を下ろす。
「うーん……?」
陰陽頭は片眉を上げ、怪訝そうな顔をした。
「紗世に……何か?」
御息所も不安そうに問い掛ける。
「和泉殿。最近、どのような具合なのかな?」
「体調が悪いというほどではないのですが……しっかり眠れていない気がするんです。」
「眠れない? なぜだい?」
「夢の内容はまったく覚えていないのですが、毎晩何か夢を見ているようで……。目が覚めると、とても疲れているのです。」
紗世は眉を寄せた。
「内容は覚えていないのに、夢の中では悲しかったり、罪悪感を感じていたような気がして……。」
「……ふむ。」
陰陽頭はしばらく考え込んだ。
そして小さく呟く。
「……生霊、か。」
「生霊!!?」
紗世は思わず声を上げた。
(生霊!? 私に!?)
「生霊……? 誰が私を……なぜ……?」
「それはまだ分からない。」
陰陽頭は首を振った。
「もっとも、今この場に生霊がいるわけではない。」
「どういうことです?」
「通常、生霊は相手の近くへ現れることが多い。しかし、今の和泉殿の周囲には何もいない。」
一拍置く。
「どうやら、その生霊は夢を渡って来ているようだ。」
「夢を……渡る?」
御息所も息を飲んだ。
「なぜ、そのようなことを……。」
「和泉殿に会いたくても会えないからだろう。」
陰陽頭は静かに言った。
「おそらく生霊の主は、和泉殿が今どこに住み、どこで暮らしているのか知らない。」
「それが、なぜ夢を渡ることになるのですか?」
「夢の中には距離も時間もない。」
陰陽頭はゆっくり説明する。
「どれほど遠く離れていても、どこにいるか分からなくても、会いたいと強く願えば辿り着いてしまうことがあるのだよ。」
紗世はごくりと唾を飲み込んだ。
「この生霊は……私に何を望んでいるのでしょう……。」
「それは分からない。」
陰陽頭は首を横に振る。
「だが、和泉殿は夢の中で悲しさや罪悪感を感じるのだろう?」
「……はい。」
「ならば、生霊の主と和泉殿は同じ夢を見ている可能性が高い。」
「同じ夢……。」
「相手は何かを望んでいる。そして和泉殿は夢の中で、その願いを拒んでいるのかもしれないね。」
御息所は不安そうに紗世を見つめた。
「陰陽頭様。紗世の顔色が悪いのは、その生霊のせいなのですか?」
「今のところは単純な寝不足だろう。まあ、生霊と夢を共有している疲れもあるから、通常の寝不足以上に疲れているのだろう。生霊のせいと言えば、そうでしょう。」
陰陽頭は少し眉を下げ答えた。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「だが、もし相手が夢の中で和泉殿を引き留めようとするなら話は別だ。」
「引き留める……?」
「楽しい夢や幸せな夢を見ている時、人は目覚めたくないと思うものだろう?」
二人は静かに頷いた。
「夢の中でしか和泉殿に会えないと思ったなら――」
陰陽頭の声が低くなる。
「和泉殿を夢の中へ留め、目覚めさせまいとするかもしれぬ。」
紗世の顔から血の気が引いた。
「……眠り続ける……ということですか?」
「ああ。」
陰陽頭は静かに頷く。
「夢から戻れなくなれば、肉体だけが眠り続けることになる。」
御息所が息を呑んだ。
「長く続けば、命にも関わる。」
部屋が静まり返った。
「だが──」
陰陽頭はすぐに言葉を続ける。
「和泉殿はまだ夢の内容を覚えていないのだろう?」
「はい。」
「ならば今の夢はまだ不完全だ。不完全な夢の中に相手を留め続けることは難しい。」
少し笑う。
「すぐにどうこうなるわけではないさ。」
紗世は少しだけ肩の力を抜いた。
「この生霊から逃れる方法はありますか?」
「最も確実なのは、生霊を飛ばしている本人を見つけることだ。」
「本人を?」
「そう。その者が何を望み、なぜ生霊を飛ばしているのかを知り、原因を解消する。」
「でも、それは……。」
「現実的ではないね。」
陰陽頭は苦笑した。
「誰なのかも、どこにいるのかも分からない。それどころか本人は生霊を飛ばしている自覚すらないかもしれない。」
「他には?」
「夢の中で相手と話をすることだ。」
「話を?」
「夢の内容を覚えたまま目覚めることができれば、相手の望みも分かるかもしれない。」
紗世は小さく頷いた。
「……分かりました。」
陰陽頭は表情を和らげた。
「安心しなさい。少なくとも、この生霊は和泉殿を苦しめようとしているわけではない。」
「そうでしょうか……。」
「恨みではないと思うよ。」
陰陽頭は静かに微笑んだ。
「夢の中で会い、きちんと話ができれば収まるかもしれない。」
「そうですね。」
紗世は少しだけ笑った。
「いざとなったら陰陽頭様もいらっしゃいますし。」
「ああ。」
陰陽頭は頷く。
「安心しなさい。」
「はい!」
そう返事をした後、紗世はふと外を見た。
「あっ! もうこんなに暗くなってる!」
慌てて立ち上がる。
「帰りますね。」
「ええ。気を付けて帰るのよ。」
御息所が穏やかに言った。
紗世はにやりと笑う。
「……御息所様。」
「何かしら?」
「明日の出仕は、少し遅めにしますね。」
「…………え?」
御息所が固まった。
そして、みるみる頬が赤くなっていく。
「いっ……いつも通りで良いわ!」
「ええ~?」
紗世は陰陽頭へ視線を向ける。
「陰陽頭様は、ゆっくりの方が良いですよねぇ~?」
陰陽頭は咳払いをした。
「……和泉殿。」
「はい?」
「君は本当に余計なことばかり言うね。」
そう言いながらも、耳の先はほんのり赤かった。




