第193話 姫霊のいたずら
───その日の夜
陰陽頭邸の夢枕に、式部少丞の姫君が立った。
「おや。君か。」
陰陽頭が声を掛けると、姫君は深々と頭を下げた。
「この度は私の願いを聞き届け、上へ上げてくださり、本当にありがとうございました。」
陰陽頭は静かに頷いた。
「陰陽頭様とは二ヶ月にも満たぬ短い間でしたが……とても楽しゅうございました。」
「次に生まれ変わったら、悔いのない生き方をするのだよ。」
「はい。」
姫君は微笑んだ。
「陰陽頭様も、御息所様も、想いを伝えられて良うございましたね。」
「──っ。」
陰陽頭が目を見開く。
「誰に体を借りたのか、気付いていたのかい?」
「はい。」
姫君はあっさり頷いた。
「御息所様のお体に入った瞬間、その方の記憶が流れ込んでまいりましたので。」
そして少し困ったように笑う。
「まさか、あのように高貴なお方だったとは思いませんでした。」
一拍置き、姫君は真っ直ぐ陰陽頭を見た。
「実は私……本当に陰陽頭様に惹かれておりました。」
「え?」
「私のような子供にも真摯に向き合ってくださって、とても面倒な姫だったでしょうに、最後までお優しくしてくださいました。」
姫君は少し視線を落とした。
「私……あのお体から離れたくないと思ってしまうほどに。」
陰陽頭は何も言わなかった。
「けれど、御息所様のお心を知ってしまったのです。」
姫君はふわりと微笑む。
「あんなにも陰陽頭様をお慕いしておられるのですもの。」
「……。」
今度は陰陽頭の頬がわずかに赤くなった。
「それなのに、お二人とも身分や立場に縛られて、本当のお気持ちを伝えられずにおられました。」
姫君は少しだけ悪戯っぽい顔になった。
「それが切なくて……でも、とても羨ましくて。」
「羨ましい?」
「ええ。」
くすり、と笑う。
「だから、少しだけ背中を押して差し上げましたの。」
「背中を押した?」
「はい。」
姫君の笑みが深くなる。
「お二人が一番近づいた瞬間に、私は御息所様のお体を離れました。」
「……!」
陰陽頭は思わず額を押さえた。
「なんて折り悪く上へ上がるのかと思っていたが……わざとだったのかい?」
「ええ。」
悪戯が成功した子供のような顔。
「だって、あのままではお二人とも、いつまで経っても本音を言わないでしょう?」
「まったく……。」
陰陽頭は苦笑した。
「恋愛経験の少ない姫君に背中を押されるとはね。」
「ふふっ。」
姫君は嬉しそうに笑った。
「他人の恋を応援するという体験もできましたわ。」
そして、少しだけ遠くを見るような目になる。
「私、生まれ変わったら、陰陽頭様と御息所様のような恋をしたいです。」
「……。」
「ただ相手を好きだという独りよがりの想いではなく、お互いを心から想い合えるような……そんなお方に巡り逢いたい。」
陰陽頭は静かに頷いた。
「きっと巡り逢えるよ。」
姫君が顔を上げる。
「君なら、きっと。」
姫君の瞳が潤んだ。
「ありがとうございます。」
「もう行かねばならないのだろう?」
「……はい。」
「ならば、お上がりなさい。」
陰陽頭は穏やかに微笑んだ。
「今度こそ、幸せになるのだよ。」
姫君は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。」
そして顔を上げる。
「六条御息所様にも、感謝していたとお伝えください。」
その言葉を最後に、姫君の姿は月明かりに溶けるように薄れていった。
やがて、完全に消える。
静寂だけが残った。
陰陽頭はしばらく夜空を見上げていたが、やがて小さく呟いた。
「……感謝するのは、こちらの方だ。」
───同じ夜・六条御息所邸
御息所は寝所で静かに横たわっていた。
けれど、なかなか眠りは訪れない。
そっと指先で唇に触れる。
優しく……それでいて、互いの想いを確かめ合うような熱を帯びた口付け。
今まで見たことのなかった陰陽頭の表情。
切なく、真っ直ぐな眼差し。
それを思い出すたび、胸の奥が静かに熱を帯びた。
(私は、前東宮妃という立場であるのに……)
長年、自らに言い聞かせてきた言葉。
けれど、その時ふと脳裏に浮かんだのは紗世だった。
『身分があるからって、気持ちを伝えちゃいけない道理なんてないです!』
思わず口元が緩む。
紗世はいつもそうだった。
御息所が「六条御息所」として振る舞おうとすると、好きな人を好きだと言うことに、なぜ身分が関係するのかと不思議そうな顔をする。
想う気持ちに身分など関係ないのだと。
そして事あるごとに、自分と陰陽頭の距離を縮めようとしていた。
「……本当ね、紗世。」
御息所は小さく呟いた。
「なぜ私は、もう恋をしてはいけないなどと思っていたのかしら。」
恋をすれば罪悪感に苛まれると思っていた。
前東宮妃という立場に相応しくないと、自らを責めると思っていた。
けれど今、胸にあるのはそんな感情ではなかった。
温かな幸福感。
想う人に抱き締められたこと。
互いの想いを伝え合えたこと。
穏やかに笑い合えたこと。
そのすべてが、自然と心を満たしていた。
そして――
『次に貴女の元を訪ねる時は、夜でもよろしいですか?』
陰陽頭の言葉を思い出し、頬がじんわりと熱くなる。
御息所は掛け布を少しだけ引き上げた。
(その日は、きっと紗世が大騒ぎするのでしょうね。)
想像すると可笑しくてたまらない。
くすり、と笑みがこぼれる。
窓の外では夏の夜風が静かに吹いていた。
御息所は微笑んだまま目を閉じる。
今夜は、良い夢が見られそうだった。




