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第192話 実る想い

「だって……陰陽頭様の慌てようったら……。そんなに慌てなくても、よろしいのに……。」


「いやいやいや!慌てますよ!恐れ多すぎます!」


「恐れ多い、だなんて……。」


御息所は少しだけ顔を上げた。


「今の私は、質素な袿を着た“六条”なのに?」


「それは……まさか御息所様がこのような場所へお忍びで来られるとは知られてはならぬから、そういう体で……」


「このような場所に、“御息所”は居りません。」


御息所は静かに言った。


「居るのは、“六条”です。」


「…………。」


陰陽頭は困ったように黙り込んだ。


御息所はくすり、と笑う。


「陰陽頭様は、あのように姫君を口説かれるのですね。」


「あっ……あれは……十代の姫君相手でしたので、分かりやすく言っていただけで……!」


「それに、あのように優しく抱き寄せ、髪を撫でるなんて……罪作りですわね。」


「あれも姫君の望みでしたので!」


「ふふ……やはり、お優しいのですね。」


その笑い方に、陰陽頭は少しだけ反撃したくなった。


「では、御息所様は……どのようにされるのがお好みなのですか?」


「……っえ?」


今度は御息所が狼狽える番だった。


「べっ……別に、どうされたい、とか……そういう話では……」


「ならば、なぜそのように私を責めるのです?」


「責めてなど……」


そう言いながら、御息所はふいと視線を逸らし、そのまま陰陽頭の胸元へ額を預けた。


陰陽頭は静かに御息所の髪へ触れる。


指先で、ゆっくりと梳くように撫でた。


「……そうね。」


「え?」


「少し、意地悪を言ってしまったわ。」


「…………。」


陰陽頭は何も言わず、続きを待った。


「姫君が私の身体へ入った時……自然と、あの方の記憶も流れ込んできたの。」


「……。」


「彼女の記憶の中の貴方は、とても優しくて、誠実で……。偽りと分かっていても、愛の言葉を掛けられるたびに嬉しくて……胸が高鳴って……。」


御息所は小さく笑った。


「……羨ましかったわ。」


陰陽頭の目が僅かに見開かれる。


「私の知らないところで、知らない姫に文を送り、花を贈り、愛を囁いていたのね、と……。」


「それは……っ。」


「大丈夫。」


御息所は静かに首を振った。


「仕事だったと、分かっています。」


そして、少し間を置いてから、小さな声で続ける。


「……分かっているのに。」


「…………。」


「貴方が、他の方に触れるのが嫌だったの。」


陰陽頭の呼吸が止まった。


「私……嫉妬してしまったわ。なんて心の狭い女なのかしら。」


「そのようなことを仰らないでください。」


陰陽頭は低い声で言った。


「貴女は、あの姫君を救うために協力してくださったではありませんか。」


「救いたい気持ちも、本当にあったのです。」


御息所は陰陽頭の胸元で、小さく目を伏せた。


「でも、それ以上に……」


小さく息を吸う。


「貴方を、取られたくなかった。」


「…………。」


「貴方は、人の重い情や醜い執着を見続けてきたお方でしょう?こんな嫉妬深い女など……きっと、お嫌いになるわ。」


「嫌うわけがない!!」


思わず強く言い切っていた。


御息所が驚いたように顔を上げる。


陰陽頭は真っ直ぐに御息所を見つめた。


「この二年、私は何度も貴女の元へ通いました。」


「……ええ。」


「貴女は、私が社交辞令や仕事の延長で伺っていたと思っておられるかもしれませんが……。」


陰陽頭は小さく息を吐いた。


「私は、貴女に会いたくて通っておりました。」


御息所の瞳が揺れる。


「仕事だの、相談事だのは……ただの口実です。」


「…………。」


「先ほど、仰いましたね。」


陰陽頭は御息所の頬へそっと触れた。


「私が他の姫へ触れるのが嫌だった、と。」


「……ええ。」


「それは……私の都合の良いように、受け取ってもよろしいのですか?」


御息所は、腕の中で小さく頷いた。


陰陽頭は御息所を抱き寄せる。


今度は先ほどよりも、ずっと静かに。


けれど、確かめるように。


互いの鼓動が伝わる距離。


陰陽頭は御息所の髪へ顔を埋め、小さく息を吐いた。


「……困りましたね。」


「何がです?」


「私は今、とても理性が危うい。」


御息所が小さく息を呑む。


陰陽頭は少し身を引き、御息所の顔を見た。


「……口付けしても?」


御息所はゆっくりと顔を上げる。


近い。


視線が絡む。


「……はい。」


その返事を聞いた瞬間、


陰陽頭はそっと御息所の唇へ触れた。


先ほど姫君へ向けた、優しく慰めるような口付けではない。


長く秘めていた想いを確かめるような、静かで熱を帯びた口付け。


ゆっくりと唇を離す。


「……夢を見ているようです。」


陰陽頭が掠れた声で言った。


御息所はくすりと笑う。


「夢ではございませんよ。」


「……もう一度、確かめても?」


「……ええ。」


再び重なる唇。


今度は先ほどよりも自然に、深く。


夏の夜気の中、二人の間には穏やかな静寂が流れていた。


やがて陰陽頭が小さく笑った。


「今日は、この辺りにしておかねばなりませんね。」


「そうね。」


「和泉殿を待たせてしまっておりますし。」


御息所も柔らかく笑った。


「御息所様。」


「なあに?」


陰陽頭は少しだけ真面目な顔になった。


「次に貴女の元を訪ねる時は……夜でも、よろしいですか?」


御息所の目が僅かに見開かれる。


今まで陰陽頭が六条邸を訪ねるのは、日が落ちる前までだった。


夜の訪問は、仕事でもない限り無かった。


だからこそ、その言葉の意味は重かった。


御息所は静かに、けれど嬉しそうに微笑んだ。


「……ええ。」


────


「終わったよ。和泉殿。」


紗世が振り返ると、そこには陰陽頭と、袿を深く被った御息所が立っていた。


「式部少丞様の姫君は、成仏されたのですか?」


「ああ。もう、この邸のどこにも気配は無いよ。」


陰陽頭は穏やかに答えた。


紗世はほっと胸を撫で下ろした──が。


「…………?」


すぐに、違和感に気付く。


陰陽頭と御息所の間に流れる空気が、どこか柔らかい。


先程まであった張り詰めたものが消えていた。


それに


(距離、近くない?)


並んで立つ二人の距離が、以前より僅かに近い。


ほんの半歩ほど。


けれど、その半歩が妙に意味深だった。


紗世の口元が、にやぁ……と弧を描く。


「……お二人……」


御息所の肩がぴくりと揺れた。


「何か、いい事でも、ありましたぁ?」


「和泉殿。」


陰陽頭が半眼になる。


「もう少し、上品な笑い方はできないものかな?」


「えー?だってぇ。」


紗世は完全に面白がっていた。


隣で御息所が扇を口元へ寄せ、くすりと笑う。


その笑い声に、陰陽頭が一瞬だけ視線を向けた。


ほんの短い視線。


けれど、紗世は見逃さなかった。


(あっ、これ、絶対何かあったやつだ。)


陰陽頭は誤魔化すように夜空を見上げた。


夏の空には、淡い天の川が流れている。


「恋の体験は……楽しかったかい?」


静かな声。


誰へ向けたものなのか、曖昧な問いだった。


けれど御息所は、袿の下でそっと目を細めた。


「……ええ。」


小さな返答。


「きっと、あの姫君も満たされたのでしょう。」


夜風が吹き抜ける。


その言葉は、天の川の向こうへ溶けるように消えていった。


紗世は二人を交互に見たあと、ふっと笑う。


(良かった。)


本当に、良かった。


そんな思いが、胸の奥へ静かに広がっていた。

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