第190話 御息所の譲れぬ想い
「御息所様、それはいけません!」
陰陽頭が即座に言った。
「先ほども申し上げた通り、万が一があるのです。霊が御身に執着してしまえば――」
「陰陽頭様。」
御息所が柔らかく遮る。
「先ほど、“あの程度の霊なら引き剥がせる”と仰いましたわ。」
「それは……理屈としては、です。」
「では、不可能ではないのでしょう?」
「不可能ではありません。ですが、“危険がある”と言っているのです。」
陰陽頭の声は、先ほどより低かった。
紗世は、はっとする。
(陰陽頭様……本気で焦ってる。)
だが御息所は静かに続けた。
「恋を知らぬまま亡くなった姫君なのでしょう?」
「……ええ。」
「ならば、願いを叶えて差し上げたいと思うのは、そんなにおかしなことかしら?」
「御息所様。」
「それに。」
御息所は少しだけ間を置いた。
「陰陽頭様ほどのお方が、ひと月以上も頭を悩ませておられるのでしょう?でしたら、早く終わらせて差し上げた方が良いではありませんか。」
その声音は、あくまで穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に怖い。
紗世は冷や汗をかく。
(御息所様、なんか、必死じゃない……?)
陰陽頭は額を押さえた。
「……和泉殿。」
「は、はいっ!」
「なぜ止めないんだい。」
「え!?わ、私ですか!?」
「君が最初に“体を貸せば”などと言い出したんだろう?」
「だ、だって、御息所様が自分からやるって言い出すとは思わなくて……!」
「思いつきでとんでもないことを言うんじゃない。」
「陰陽頭様だって、さっき“方法はある”って言ったじゃないですか!」
「あるとは言ったが、やるとは言ってない!」
「でも御息所様なら、乗っ取られそうになっても陰陽頭様が助けてくれるって信じてるんですよ!?」
「…………っ。」
陰陽頭が詰まった。
御簾の向こうで、御息所が小さく息を吐く。
「紗世。」
「は、はい。」
「陰陽頭様を困らせてはいけません。」
「御息所様もですよ!!」
紗世は思わず叫んだ。
「御息所様なんでそんな落ち着いてるんですか!?陰陽頭様ももっと止めません!?」
「止めているよ、私は。」
陰陽頭が疲れ切った声で言う。
「だが、御息所様が聞かない。」
「聞かない、とは失礼ですわね。」
御息所の声音は、すうっと涼しい。
「私は、きちんと理を通してお話しているだけです。」
「理で危険に飛び込まないでいただきたい。」
陰陽頭が即座に返した。
「陰陽頭様。」
「……。」
「あなたは、私を誰だと思っているのです?」
空気が変わった。
紗世が背筋を伸ばす。
陰陽頭も、はっと口を閉ざした。
御息所の声は静かだった。
けれど、その静けさには逆らえない圧がある。
「私は、前東宮妃です。」
「……。」
「東宮の子を産み、東宮に仕え、この都で生きてきました。」
「御息所様……。」
「その私が、“責任は自分で負う”と言っているのです。」
御簾の向こうで、扇がゆっくり閉じられる。
「陰陽頭。」
名を呼ばれ、陰陽頭の肩がわずかに強張った。
「これは、命令ではありません。」
一拍。
「ですが。」
さらに静かな声。
「私の願いを、退けますか?」
陰陽頭は額を押さえた。
「……ずるいお方だ。」
「何か?」
「その“身分”を持ち出されると、こちらは弱い。」
御息所は少しだけ笑った気配を見せた。
「初めて知りました。」
「私はどうも御息所様には弱いのですよ……。」
結局、陰陽頭は御息所に押し切られ、紗世と御息所はお忍びで紀大外記の邸へ向かうことになった。
陰陽頭は紗世に、真言のようなものが書かれた細長い紙を手渡した。
「陰陽頭様、これは?」
紗世が首を傾げる。
「それを御息所様の飾り髪に編み込んでくれるかい?」
「飾り髪に、ですか?」
「そうだ。和泉殿の結う飾り髪は結界になる。これは、その結界を強化する真言が記された護符だ。万が一、御息所様のお体を乗っ取ろうとした時は、髪に込めた結界が姫君の霊を弾き出す。」
「承知しました。」
紗世は大切そうにその紙を受け取った。
そして陰陽頭は、紀大外記にも通達を出した。
「大掛かりな祓いを行う。この日は大外記殿も、ご家族も、女房も使用人も、誰一人として邸に入れぬように。」
六条御息所の存在を隠すためだった。
万が一にも、「六条御息所が右京五条辺りの邸へ出入りしていた」などという噂が立てば、御息所の名に傷がつく。
それだけは避けねばならなかった。
───夜・紀大外記邸
質素な牛車が、静かに停まった。
中から降りてきたのは、目立たぬ袿を纏った二人の女。
紗世と御息所だった。
女房も、供も連れていない。
先に到着していた陰陽頭が二人を迎え、式部少丞の姫君が現れる部屋へ案内した。
陰陽頭が御簾を上げる。
「どうぞ。」
二人は静かに部屋へ入った。
だが──
そこには、誰もいない。
「あの……陰陽頭様。式部少丞様の姫君は……?」
紗世が恐る恐る尋ねる。
「いらっしゃるよ。御簾の向こう側に。」
陰陽頭は静かに答えた。
しかし。
御簾の向こうには、やはり誰も見えない。
その瞬間、紗世は背筋にぞくりとした寒気を覚えた。
(本当に……幽霊なんだ……。)
陰陽頭は、誰もいない空間へ向かって穏やかに話しかける。
「姫君。今宵は、貴方の最後の願いを叶えるため、協力してくださるお方をお連れしました。」
少し間を置く。
「六条殿と、和泉殿です。」
陰陽頭は何か声を聞いているように、小さく頷いた。
「姫君にお体を貸してくださるのは、六条殿です。」
御息所が一歩進み出て、静かに頭を下げる。
陰陽頭は再び、誰も見えぬ御簾の向こうへ視線を向けた。
「……よろしいですか、姫君。」
声が低くなる。
「決して、六条殿のお体を乗っ取ろうなどとは思わぬこと。」
空気が張り詰めた。
「もし、そのような真似をすれば──私は、問答無用で姫君を祓わねばなりません。」
静かな声音だったが、その言葉には陰陽頭としての威が宿っていた。
そして今度は、御息所へ向き直る。
「では、六条殿。私の手に触れてください。」
御息所は静かに手を伸ばし、陰陽頭の手に触れた。
その瞬間──
御息所の肩が、ぴくりと震えた。
陰陽頭はすぐに手を離す。
「……六条殿?」
紗世が不安げに顔を覗き込む。
御息所の顔が、ゆっくりと上がった。
「透けて……いないわ……。」
呆然とした声。
御息所は自分の両手を見つめ、恐る恐る頬へ触れる。
「自分の顔に……触れられる……。」
「あ……あの……?」
紗世がおずおずと声をかける。
すると御息所──いや、その身体を借りた姫君が、勢いよく顔を向けた。
「あなた!私が見えているのよね!?」
顔も声も御息所なのに、喋り方も雰囲気もまるで違う。
「え……ええ、もちろん。」
紗世は目を丸くした。
「あなたが、式部少丞様の姫君でございますか?」
「ええ、そうよ。」
紗世はごくりと唾を飲み込む。
(本当に……乗り移ったんだ……!)
自分が提案したこととはいえ、目の前の光景は現実感が薄かった。
「さて、和泉殿。」
陰陽頭が静かに言った。
「六条殿への憑依は無事成功した。私が呼ぶまで、先程案内した部屋で待機していてくれるかい?」
「は、はい。かしこまりました。」
紗世はぺこりと頭を下げ、静かに部屋を退出した。




