第189話 姫霊の最後の望み
「……陰陽頭様………陰陽頭様!!」
呼ばれた声に、陰陽頭ははっと顔を上げた。
「どうなさいましたの?何か考え事でも?」
御簾の向こうから、式部少丞の姫君の声が聞こえる。
「ああ……いや、何でもございませんよ。」
「陰陽頭様が私に通ってくださって、もうひと月以上になりますわね……。」
御簾の向こうで、扇がはらりと開かれた。
「私への想いは、姫君に届きましたでしょうか?」
(やれることは、やった。そろそろ解放してくれるか……?)
陰陽頭は、にこやかに言った。
「……ええ。陰陽頭様のお文はどれもお優しくて、私を大事に想ってくださって……胸が高鳴りましたわ。」
(ぃよっし!)
陰陽頭、心の中で静かにガッツポーズ。
「……けれど……。」
「けれど?」
「恋というものは……通って、お文を交わして、それだけで終わるものではございませんでしょう?」
「と、言いますと?」
御簾の向こうで、姫君がもじもじしている気配がした。
「その……物語に出てくる殿方と姫君のように……」
「物語?」
「殿方に抱き寄せられたり……髪を撫でてもらったり……あと、口付け……とか。」
ブフォッ!!
陰陽頭は思わず飲んでいた茶を吹き出した。
(君、触れないじゃないか。)
「やはり、一番ときめくのは、そこではないかと思うのです……。」
姫君はうっとりとした声で言った。
「し、しかし姫君。私は姫君を見て、聞いて、認識することはできますが……触れることは難しいかと……。」
「そう……ですよね……。」
姫君はしゅん、とした気配を見せた。
「でも……それができないとなると……私、成仏できるのかしら……?」
(脅し!?脅しか!!??)
陰陽頭のこめかみが引きつる。
「……何か方法はないか、少し考えてみましょう。」
「本当でございますか!?」
ぱっと声が明るくなる。
「やはり陰陽頭様はお優しいのですね!」
「ははは……。」
乾いた笑いしか出てこなかった。
───二日後・六条御息所邸
「陰陽頭様がいらっしゃいました。」
取り次ぎの女房が知らせに来た。
「……お通しして。」
御息所の声は、相変わらず静かだった。
陰陽頭が御簾の前に座ると、先に口を開いたのは御息所だった。
「先日は、申し訳ありませんでした。」
御簾の向こうで、御息所が頭を下げる。
「え?い、いや、お顔をお上げください!何を謝られているのです?」
突然の謝罪に、陰陽頭は狼狽えた。
「先日は、せっかく陰陽頭様が来てくださったのに、話も聞かず帰してしまいました。」
御息所は、傍に控える紗世へ視線を向けた。
「紗世に怒られましたの。陰陽頭様は貴重なお時間を割いてでも話をしたいと来てくださったのに、それを聞かず帰すなんて、と。」
紗世は気まずそうに俯いた。
「いいえ。元々、文の一つも寄越さなかった私が悪いのです。自業自得ですよ。お気になさらず。」
御息所は御簾の内で、小さく胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます。……それで、このひと月の間、何があったのですか?」
先日のような圧はない。
静かで、穏やかな声だった。
「ええ……それが……。」
陰陽頭は、右京五条の紀大外記の邸で起きた怪異について話し始めた。
十数年前に亡くなった式部少丞の姫君の霊であること。
恋をしたいという未練が、成仏を妨げていること。
恋の体験をさせることが、成仏へ繋がること。
そして、霊の存在を見て聞いて認識できる陰陽頭へ白羽の矢が立ったこと。
今現在通っている相手は、生身の人間ではなく、式部少丞の姫君の霊であること。
順を追って、静かに説明した。
「つまり。」
御息所が静かに口を開く。
「陰陽頭様は、その亡くなった式部少丞の姫君の“恋人役”を、今している……ということなのですね。」
「ええ。想い人に通ってもらい、文や花を贈られるとはどのようなものなのか体験したい、と。」
「………。」
沈黙。
その沈黙を破ったのは紗世だった。
「でも、もうひと月以上通ってるんですよね?来訪も文も増やしてるんでしょう?そろそろ成仏してくれるんじゃないですか?」
陰陽頭、真顔。
そして項垂れた。
「私も、そろそろだと思っていたのですがね……。」
「?」
御息所と紗世が同時に首を傾げる。
「最後に、難しい要求をされまして……頭を悩ませているところです。」
「難しい要求……とは?」
御息所が聞いた。
陰陽頭は気まずそうな顔をした。
「恋の体験で、最も胸が高鳴るのは……殿方に抱き寄せられたり、髪を撫でられたり……触れ合うことではないか、と。」
御息所と紗世の頬が同時に赤くなる。
「で、でも、その姫君、幽霊なんですよね?触れないのでは?」
紗世が素朴に聞いた。
「そうなんだよ。触れないのに、抱き寄せて欲しいと言われてもねぇ。」
陰陽頭は深々と溜息を吐いた。
「しかし、それができなければ成仏できそうにないと言うし……。」
「うーーん……。」
紗世は腕を組んだ。
「よく“取り憑かれる”って言うじゃないですか。あの姫君を、意図的に誰かへ憑かせることはできないんですか?つまり、誰かに体を貸してもらう、とか。」
「和泉殿。」
陰陽頭が即座に顔をしかめた。
「さらりと言っているが、それは非常に危険なんだよ。貸した体を返してもらえず、霊に乗っ取られる可能性がある。」
「そうなんですか……。」
紗世は少し考え込み。
「でも、もし乗っ取られた場合、陰陽頭様でも追い出せないんですか?」
「あの姫君程度の霊体なら追い出せる。だが、霊にも、貸した側にも負担が大きい。だから本来はやりたくない。」
「あ、でも、できることはできるんですね?」
紗世が顔を上げた。
「は?」
「だったら、私がその姫君に体を貸します!」
「はあああ!!??」
陰陽頭が珍しく素っ頓狂な声を上げた。
「和泉殿、話聞いてた!?万が一、乗っ取られたらどうするんだい!!」
「だから、その時は陰陽頭様が頑張って引っぺがしてください!」
「いや、そうは言ってもだね!!」
「大丈夫です!私は陰陽頭様を信じてます!!」
「信頼が重い!!」
二人がぎゃあぎゃあと言い合っていると。
「いけません。紗世。」
御息所の静かな声が落ちた。
「……御息所様。」
「陰陽頭様がお困りでしょう?」
紗世はしゅん、と肩を落とした。
「ですから。」
御息所は静かに続ける。
「姫君には、私に乗り移っていただきましょう。」
………。
………。
………。
───沈黙。
そして。
「ええええええええええええ!!!!????」
紗世と陰陽頭の大絶叫が、六条御息所邸に響き渡った。




