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第188話 意地の張り合い

涼しさの漂う夏の夕刻。


その空気には、まるでそぐわぬ緊張感が満ちていた。


御簾の向こうには、六条御息所。


御簾の前には、陰陽頭。


そして少し離れた場所に、紗世が控えている。


御簾と扇に遮られ、御息所の表情は見えない。


だが、静かな空気の中に漂う圧だけは、はっきりと伝わっていた。


やがて、陰陽頭が静かに口を開く。


「この度は……ご体調が優れぬというのに、無理を申し上げ、申し訳ございません。」


深々と頭を下げた。


御息所は扇を口元へ寄せたまま、静かに答える。


「いいえ。」


声音は穏やか。


だが


「いつもお忙しい陰陽頭様が、無理を言われるほどですもの。」


一拍。


「余程のことがあるのでしょう?」


(御息所様、怒ってる……。)


紗世は背筋を冷やした。


普段は穏やかな御息所が放つ、最大級の圧だった。


「いえ、その……ここひと月ほど、こちらへ伺えなかった理由なのですが……。」


「お気になさらないでくださいませ。」


ぴしゃり、と御息所は返す。


「陰陽頭様にも、色々おありなのでしょう?」


(怖い怖い怖い怖い!!)


「はい……その、色々ありまして。それを詳しく……。」


「必要ございません。」


陰陽頭がわずかに目を見開いた。


「私は、“色々あった”というお方の事情を詮索するほど、無粋ではございません。」


静かな声。


だが一歩も引かない。


「色々あったというのなら、それで十分です。」


陰陽頭は小さく息を吐いた。


「……私が、お話ししたいのです。」


低く、落ち着いた声だった。


「…………必要ないと、申し上げております。」


───沈黙。


(やっっばぁ………ガチギレじゃん……どーすんの、この空気……。)


紗世は重い空気に顔を上げられなかった。


陰陽頭はしばらく御簾を見つめ。


やがて静かに言った。


「私の話は、聞いていただけないということですか?」


「お忙しいのでしょう?」


御息所は扇越しに答える。


「私への説明のために、貴重なお時間を割かれる必要はございません。」


「……左様でございますか。」


陰陽頭はゆっくり立ち上がった。


「ちょっ……陰陽頭様!!」


紗世も慌てて膝を立てる。


「すまないね、和泉殿。」


陰陽頭は苦笑した。


「せっかく取り次いでくれたのに。」


そう言って、御簾の方へ視線を向ける。


「また、出直します。」


一瞬だけ間を置き。


「……次が、いつになるか分かりませんが。」


そう残し、陰陽頭は静かに部屋を出て行った。




陰陽頭の足音が遠ざかり、部屋に静寂が戻る。


「御息所様!!!!」


紗世は勢いよく御息所へ向き直った。


「なんで帰らせちゃったんですか!?陰陽頭様、ちゃんと理由を説明するって言ってくださったじゃないですか!」


「言ったでしょう?」


御息所は静かに返す。


「陰陽頭はお忙しいの。貴重なお時間を、私が奪ってはいけないのよ。」


「その貴重な時間を!!」


紗世は思わず身を乗り出した。


「御息所様のために使おうとしてくださったじゃないですか!」


御息所の扇がぴたりと止まる。


「そもそも……。」


少し小さくなった声。


「私のために時間を割くなど……他に行くところがあるでしょうに……。」


「…………御息所様。」


紗世は少し真剣な顔になった。


「陰陽頭様に会えて、嬉しくなかったんですか?」


「……っ。」


「どうして、一度は断ったのに、二度目の取り次ぎには応じたんです?」


「それは……。」


御息所の声が詰まる。


「御息所様だって、一目でも陰陽頭様に会いたかったんじゃないですか?」


沈黙。


紗世は勢いよく立ち上がった。


「私、陰陽頭様にもう一回だけ来てもらえるよう頼んできます!!」


「え、ちょ……紗世!」


「こんな意地の張り方したら、お二人とも絶対後悔します!」


そう言い残し。


紗世は廊下を駆けていった。




────


「陰陽頭様!!!」


馬宿りで馬を引いていた陰陽頭の背へ、声が飛ぶ。


振り返ると、息を切らせた紗世が立っていた。


「和泉殿……。」


「陰陽頭様!!もう一回だけ!後日でもいいから、もう一回だけ来てください!!」


陰陽頭は困ったように眉を下げた。


「しかしね、和泉殿。御息所様は“聞きたくない”と仰っているんだ。無理強いはできない。」


「聞きたくないわけないでしょう!!!」


紗世は勢いよく陰陽頭の袖を掴んだ。


「聞きたくないんじゃなくて、“傷つくのが怖い”んです!!」


陰陽頭の目がわずかに見開かれる。


「……それとも。」


紗世は少し息を整えながら続けた。


「陰陽頭様が説明しようとしてることって、御息所様を傷つける内容なんですか?」


「傷つけたくないから、説明しようとしているんだよ。」


「でしょう!!!?」


紗世は即座に返した。


「だったら、ここで引いちゃダメです!何がなんでも説明してください!!」


「しかし……。」


「半刻でも良いです!少しでも時間が取れる日はありませんか!?」


陰陽頭は少し考え込み。


やがて静かに口を開く。


「……ならば、二日後の夕刻なら。」


「分かりました!」


紗世の顔がぱっと明るくなる。


「私も御息所様に、ちゃんと落ち着いて話を聞いてもらえるよう説得しますから!」


陰陽頭はふっと笑った。


「……ありがとう。」


そう言って馬へ跨る。


紗世は見上げながら言った。


「このひと月、御息所様、本当に寂しそうにしてらしたんです。」


陰陽頭の手が止まる。


「門の外で馬の蹄の音がするたび、必ず反応してました。……今日は意地を張っちゃったけど、本当は陰陽頭様に会えて嬉しかったと思います。」


陰陽頭はしばらく黙り。


やがて馬上から、ぽんぽん、と紗世の頭を軽く叩いた。


「心配をかけて、すまないね。」


少しだけ眉を下げて笑う。


その表情は、どこか安堵しているようにも見えた。

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