第187話 死霊の恋人
───恋の体験がしたい。
式部少丞の姫君の願いを叶えるため、陰陽頭は紀大外記の邸へ定期的に通うことになった。
紀大外記は、安心しきった顔で笑っていた。
「そんなことで女の霊は祓えるのですか?それならどうぞ、思う存分お通いください!
いやぁ、悪霊となって邸を壊したりするのではと怯えておりましたので……良かった、良かった!」
(思う存分通え、とは……気楽に言ってくれる。)
陰陽頭は内心でため息をついた。
しかし、“通う”と言っても、ただ顔を出せば良い訳ではない。
平安の恋において、文のやり取りは何より重要だった。
恋の体験を望む姫君にとっても、それは欠かせぬものだった。
陰陽頭は陰陽寮の文机へ肘をつき、深く項垂れる。
「十代半ばの姫へ恋文、か……。」
しかも、最初は“あなたが気になっています”程度の淡い内容。
だが関係が深まるにつれ、文の内容も変えていかねばならない。
「……面倒臭すぎる。」
一方、肝心の姫君は。
「今日は陰陽頭様がお見えになると文をいただきましたので、大陸渡りの菓子を用意しましたの。」
「もうお帰りになるのですか?
次はいつ来てくださいます?」
完全に楽しんでいた。
しかも、陰陽頭の仕事が立て込み、数日通えなかっただけで。
「……他に気になる姫君でもできましたの?」
と、むくれてみせる始末。
その度に陰陽頭は機嫌を取り、姫君は嬉しそうに笑った。
陰陽頭にとっては心底うんざりするやり取りだったが、姫君にとっては、そのすべてが夢見た“恋”そのものらしかった。
───そして、ひと月ほど経った頃。
『あの浮いた話ひとつ無かった陰陽頭に、とうとう通う姫ができたらしい。』
そんな噂が、都で囁かれるようになっていた。
そんなある日。
陰陽頭の元へ一通の文が届く。
「……和泉殿?」
陰陽頭は首を傾げながら文を開き。
次の瞬間。
「……っげ。」
思わず顔を引き攣らせた。
夏の日は
空には照れど
君待つと
月も経ぬれば
面ぞ晴れせぬ
六条御息所ではない。
紗世からの文だった。
御息所が、自ら催促めいた文を送るような性格ではない。
それを知っているからこそ、紗世が代わりに送ってきたのだろう。
しかも、文には率直にこう書かれていた。
『最近、陰陽頭様に通っておられる姫君がいるという噂を耳にしました。
あれは本当なのですか?』
「……しまった……。」
陰陽頭の声が小さく漏れる。
紗世が耳にしたということは。
当然、その主人である六条御息所の耳にも入っている可能性が高い。
六条御息所邸へ向かおうと思ったものの、すでに式部少丞の姫君からは
『この日はこの贈り物を持ってきて欲しい。』
『この日は文を寄越さず、“急に会いたくなって来てしまった”という形で。』
『この日は風が強く、御簾がめくれて私の顔が見えてしまった、という設定で。』
など、来訪理由や状況設定まで、一日単位で細かく指定されていた。
「……都に噂が立っただけでも厄介なのに……。」
陰陽頭は額を押さえる。
「御息所様まで耳にしていたとなると……非常にまずい。」
喉がごくりと鳴った。
(あのお方は、立場上、人へ簡単に心を開かれぬ……。
ようやく少しずつ距離が縮まってきたと思っていたのに……また閉ざしてしまうかもしれん。)
陰陽頭はすぐに文机へ向かった。
夏の日の
傾くころを
待ちわびて
月余りぶりに
君に逢はまし
(とにかく、噂の理由だけでも説明せねば……。)
────六条御息所邸
「御息所様は本日、少々体調が優れず、お会いできぬと……。」
取次ぎの女房が申し訳なさそうに頭を下げた。
(避けられている……。)
陰陽頭はそっと天を仰ぐ。
(……怒っておられるな。)
「分かりました。日を改めましょう。」
静かに頷き。
「御息所様には、どうか御身を大切になさるよう、お伝えください。」
すると
「お待ちください!」
邸の奥から、ぱたぱたと紗世が駆けてきた。
「い、和泉殿ぉぉ……。」
陰陽頭は思わず安堵の声を漏らす。
紗世は陰陽頭を門脇へ手招きした。
「陰陽頭様、ちょっとこちらへ。」
「どうしたんだい?」
「あの噂、どういうことなんですか!?
通ってる姫君がいるって、本当じゃないんでしょう?」
「和泉殿は、本当に噂を鵜呑みにせず、自分で考える子だねぇ。」
「感心してる場合ですか!」
紗世は頬を膨らませた。
「御息所様、表には出されないけど……きっと、すごく寂しかったと思います。
ひと月以上も来ないで、何をしてたんですか?」
陰陽頭は小さく息を吐く。
「……少し、面倒な仕事が入ってしまってね。」
「そんなに大変なお仕事なんですか?」
「大変というか……厄介というか……。」
陰陽頭は遠い目をした。
「いつ終わるんです?もうすぐ終わります?」
「……それが、私にも分からないんだよ。」
「その仕事が終わるまで、御息所様のところへは来られないんですか?」
「難しいね……。
だからこそ、本当は御息所様へきちんと説明したかったのだけど……。」
陰陽頭は邸の奥を見る。
「どうやら避けられてしまったようだ。」
紗世は少し考え込み。
やがて、ぐっと頷いた。
「私、もう一回、御息所様にお取次ぎしてみます。」
「本当かい!?」
陰陽頭の顔がぱっと明るくなる。
「私、御息所様の沈んだ顔、これ以上見たくないので。」
そう言うと紗世は踵を返した。
「ちょ、ちょっと待っててください!」
ぱたぱたと邸の奥へ走っていく後ろ姿を見送りながら。
陰陽頭は心底ほっとしたように息を吐いた。
「……和泉殿、本当に良い子だなぁ……。」




