第186話 姫の霊の未練
「あなたは……どなたなのですか?」
すう、と。
姫君の手に扇が現れた。
その扇で口元を隠しながら、姫君は陰陽頭を見つめる。
声は細く、どこか頼りない。
「私は陰陽頭、安倍在昌と申します。」
陰陽頭は静かに一礼した。
「式部少丞様の姫君にございますか?」
「……ええ。」
「どなたかを、お待ちしているのですか?」
姫君は少し目を伏せた。
「……ええ。」
一拍。
「ですが、もう……私のところへは来てくださいません。」
扇を持つ指先が小さく震えていた。
「他の姫の元へ行かれてしまいました。」
「左様でございましたか……。」
陰陽頭は静かに頷く。
「そのお相手が、憎いのですか?」
姫君は小さく首を振った。
「いいえ……。」
静かな声。
「あのお方は、私の元へ三、四度ほど通われただけ。
きっと、この邸にどのような姫がいるのか、興味本位で訪れただけだったのでしょう……。」
陰陽頭は姫君を見据えた。
「姫君は……今、ご自分がどういう存在なのか、理解しておいでですか?」
姫君は少しだけ扇を下ろした。
「私はもう、この世の者ではないのでしょう?」
(死んでいる自覚はあるのか。)
陰陽頭は心の中で呟く。
「お相手を恨んでいないのなら、なぜこの邸へ留まっておられるのです?
何が、姫君をこの世へ縛り付けているのですか?」
「……分かりません。」
姫君はゆっくりと視線を庭へ向けた。
「気付けば何年も、この荒れゆく邸で庭を眺めていただけで……。」
「陰陽師達が何度か姫君を上へ上げようとしたそうですが、それが叶わなかったということは、姫君に強い未練があるはずです。」
陰陽頭は柔らかい声で続ける。
「何か、やり残したことはございませんか?」
「やり残したこと……?」
姫君は少し首を傾げた。
しばらく考え込み。
やがて、小さく呟く。
「……やり残した、というより……。」
「ええ。」
「最近、この邸へ新しい殿方が住み始めましたでしょう?」
「ああ、紀大外記殿ですね。」
「私、大きな声の殿方が苦手で……。」
姫君は困ったように眉を下げた。
「夜遅くまで酒を飲んで騒いだり、笑ったり……もう少し静かにして欲しいと思っておりました。」
(それで金縛りで黙らせていたのか……。
姫君、意外と力づくだな……。)
陰陽頭は内心で少しだけ頭を抱えた。
姫君は扇越しに、じっと陰陽頭を見る。
「私……。」
「なんでしょう?」
初夏の風が、閉ざされた妻戸の隙間から入り込む。
その風に、長い黒髪が揺れた。
「……恋を、してみとうございました。」
陰陽頭は一瞬、目を瞬いた。
「恋……ですか。」
「やり残したことを聞かれましたので……。」
姫君は扇を胸元へ寄せた。
「あのお方は、最初で最後、私の元へ通ってくださった殿方でした。
ですが……恋、と呼べるほど深い仲になる前に終わってしまって……。」
声が次第に小さくなる。
「これから、この殿方が通ってくださって、情が芽生えて、恋になるのかと……そう思っておりましたのに……。」
(若いな……。)
陰陽頭は姫君を見る。
年の頃は、十五、六ほどか。
恋そのものより、“恋に憧れる年頃”。
「恋をしたら、何をしてみたかったのです?」
姫君は少し考え込む。
「殿方が定期的に通ってくださるのは、どんな気持ちなのかしら、と。」
どこか夢見るような声音。
「どのようなお文をくださるのか。
どのようなお花を届けてくださるのか。
女房達を下がらせて、二人きりでどのようなお話をするのか……。」
扇をぎゅっと握る。
「そんな殿方が現れるくらいまでは、生きていたかった……。」
「姫君は、なぜ亡くなられたのです?
病か何かで?」
姫君は少し黙った。
「……よく、覚えておりません。」
ぽつり。
「あのお方が他の姫の元へ通い、その姫に子ができたという噂を聞いて……。」
その時の苦しさを思い出したのか、胸元を押さえる。
「もしかしたら……子を授かったのは私だったかもしれない、と……。」
陰陽頭は静かに耳を傾けた。
「そう思ったら、胸が苦しくて……食事も喉を通らなくなって……。」
初夏の風が止む。
「そう……あの日、目眩がして倒れて……そのまま……。」
「……左様でございましたか。」
陰陽頭は神妙に頷いた。
だが内心は、別の意味で困惑していた。
(恋をしたい、と言われてもな……。
君、死んでいるのだぞ……?)
しかも。
(定期的に通って欲しいと言われても、ほとんどの者には姫君の姿は見えぬ。
どうやって“通え”というのだ……。)
その時。
姫君が、すっと扇へ口元を寄せた。
「……陰陽頭様は、私が見えるのですよね?」
「ええ。」
「こうして、お話もできる。」
「ええ。」
「陰陽頭様くらいのお年でしたら、色んな姫君の元へ通われたのでしょう?」
(……嫌な予感がする。)
陰陽頭の眉がぴくりと動く。
「陰陽頭様も、私を上へ上げねばお仕事にならないのですよね?」
(待て。これは……。)
姫君は扇の向こうで、小さく微笑んだ。
「私、恋を体験できたなら、とても満足すると思いますの。」
(……確定か。)
陰陽頭は静かに天を仰いだ。
そして、観念したように姫君を見つめ直す。
「陰陽頭様。」
姫君の声は、どこか弾んでいた。
「私を、想い人と思って通ってくださいませんか?」
(それをしなければ、君、成仏する気がないだろう……。)
陰陽頭は深く息を吐いた。
「…………いいでしょう。」
心の中で。
(……泣きたい。)




