第185話 陰陽頭の苦悩
今日、六条御息所邸はいつもより静かだった。
紗世と右近、それに若い女房達が、頭中将主催の蹴鞠会へ見物に招かれ、不在にしているからだろう。
六条御息所もまた誘われていたが、
「少し暑気に当てられたようで……。」
と、丁重に断っていた。
縁側では、御息所がぼんやりと庭を眺めている。
風はある。
だが、夏の空気は重い。
遠くで蝉が鳴いていた。
「御息所様、少し横になられては?」
年嵩の女房・大江が静かに声を掛ける。
御息所は小さく首を振った。
「大丈夫よ。具合が悪い訳ではないの。」
そう言いながらも、どこか覇気がない。
「……御息所様。」
大江はそっと目を伏せた。
御息所の気分が沈んでいる理由を、彼女は察していた。
──最近、陰陽頭の来訪が極端に減っていた。
この二年。
陰陽頭は少なくとも月に二度、多い時は三日に一度ほど、何かと理由をつけて御息所邸へ顔を出していた。
それが。
最後の来訪から、既にひと月以上が過ぎている。
「陰陽頭様は陰陽寮の長ですもの。」
御息所は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「お忙しいのでしょう。むしろ、今まで無理をさせていたのかもしれないわ。」
穏やかな声音。
だが、その横顔は少し寂しそうだった。
(もう……陰陽頭様は何をしておられるのかしら……。)
大江は茶を用意しながら心の中で嘆いた。
(御息所様のお立場で、“来て欲しい”などと言えるはずもないし……。)
ふと、手が止まる。
最近、都で流れている噂を思い出した。
「……陰陽頭様のあの噂、本当なのかしら……。」
ぽつり、と漏れた声は蝉の音へ溶けていった。
───陰陽寮
「あの陰陽頭様に、とうとう“通う姫”ができたらしい──などと、都で噂になっておりますよ。」
若い陰陽師が、半ば面白がるように言った。
「……やめてくれ。」
陰陽頭は机へ突っ伏しながら呻いた。
「本当に勘弁して欲しい。いつ終わるんだ、これは……。」
「まだ、あの女の霊は成仏していないのですか?」
「成仏どころか、最近は要求が増えてきた。」
「それは……。」
若い陰陽師達は微妙な顔を見合わせた。
陰陽頭はじろりと視線だけ向ける。
「君達がもう少し頑張ってくれていたら、私がこんな事をしなくても済んだんだがね。」
「……あっ、私は結界札の確認が!」
「私も儀式の準備を!」
「急に忙しくなったな、君達。」
陰陽頭が呆れたように言う頃には、若い陰陽師達は潮が引くように部屋を出て行っていた。
静かになった部屋で、陰陽頭は深くため息を吐く。
───事の発端は、約二ヶ月前に遡る。
「買い取った邸に、女の霊が出る?」
「……はい。」
若い陰陽師が控えめに頷く。
「浄霊も除霊も試みたのですが、まったく効果がなく……。」
「その霊が、この世へ留まる理由は?」
陰陽師達は顔を見合わせた。
「私達には……陰陽頭様のように、“見える力”も、“声を聞く力”も、まだございませんので……。」
陰陽頭は小さく息を吐いた。
(まあ、霊感の有無は生まれ持ったものだからな。)
責めても仕方ない。
「最初から話してくれ。」
若い陰陽師の表情が明るくなる。
「今年、地方の任を終えた受領が、右京五条辺りの邸を買い取ったのですが……そこへ女の霊が現れるのです。」
「右京五条か……。」
陰陽頭は少し考える。
(地方で財を築いた帰京組だな。)
脳裏に、藤原兼成の顔が浮かんだ。
(兼成殿は四条の左京寄りだったか。地方受領上がりにしては、なかなか良い場所を押さえている。やはり優秀なのだろうな。)
「女の霊が現れるのは東の対の屋で、夜ごとすすり泣く声がすると。」
若い陰陽師は続ける。
「加えて、丑の刻前後になると、邸の主人は必ず金縛りに遭うそうです。」
「前の持ち主は?」
「式部少丞様でございます。その姫君が若くして亡くなり、その後、夫妻ともに塞ぎ込み……邸を手放し、出家されたとか。」
「姫君……。」
「邸はそれから十年以上空き家だったようです。」
「……ふむ。」
陰陽頭は顎へ手を添えた。
「恐らく、その姫君の霊かと考えておりますが、何が未練なのか分からず……。」
しばし沈黙。
やがて陰陽頭は立ち上がった。
「……本人に聞くしかないな。」
「え?」
「その邸へ案内しなさい。」
───右京外れ・五条の邸
「これはこれは、陰陽頭様!」
邸の主人である紀大外記が、青い顔で出迎えた。
「どうか、あの忌まわしい女の霊を祓ってくださいませ!」
陰陽頭は軽く頷き、件の部屋へ案内される。
妻戸が開かれた瞬間。
奥の部屋の中央に、ひとりの姫が座っていた。
薄い単衣姿。
長い黒髪だけが、水に濡れたように畳へ広がっている。
年の頃は十五、六ほどか。
俯いたまま微動だにしない。
───いや。
正確には、“姫と思しき霊”だった。
陰陽頭以外には見えていないらしい。
「私以外、部屋から出て行ってくれるかな。」
「えっ!?危険なのですか!?」
「そういう訳ではないよ。」
陰陽頭は静かに言った。
「少し、この姫と話をしたくてね。」
紀大外記も使用人達も顔を青ざめさせ、そそくさと退出していく。
若い陰陽師達も、陰陽頭の視線の先を見て、何もない空間から目を逸らした。
「ほら、君達も。」
手をひらひらと振る。
妻戸が閉まり、部屋には陰陽頭だけが残された。
陰陽頭は、静かに姫の前へ座る。
「さて。」
柔らかな声が、静まり返った部屋へ落ちた。
「君は、何をしたかったのかな。」
姫はゆっくり顔を上げる。
「……教えてくれないか?」




