第183話 蹴鞠2
御簾の内は、もはや騒然だった。
「見た!?」
「壁を蹴った!!」
「え、怖……!」
「でも格好良い……!」
最初は、そんな反応だった。
だが今の惟成は、あまりにも“男”として迫力がありすぎた。
高く跳ぶ脚。
着地の瞬間の体幹。
狩衣越しにも分かる鍛えられた身体。
普段は静かな男が、一瞬だけ見せる獣じみた鋭さ。
それらが姫君達の妙な想像力を、刺激してしまった。
「……あの腕で抱き寄せられたら、逃げられなさそう。」
誰かが小さく呟く。
「っ……!」
空気が変わる。
「分かる……。」
「絶対、力強いわよね……。」
「しかも惟成様って、無理矢理な感じではなさそうなのが余計に……。」
「分かります……。」
「静かな殿方ほど、急に余裕なくなった時が危ないのよ……。」
「きゃっ……!」
「普段無表情なのに、好きな姫君の前だけ乱れるとか……。」
「やだ……想像してしまう……。」
「絶対、普段との落差が凄い。」
「それで低い声で名前呼ばれたら……。」
「無理……。」
「死ぬ……。」
「でも生き返る……。」
「分かるぅぅぅ!!」
御簾の内、完全に危険地帯だった。
右近は肩を震わせている。
「ふっ……あはは……!」
紗世はもう限界だった。
「〜〜〜〜っ!!」
顔どころか首まで真っ赤。
(やめてぇぇぇ!!)
脳裏に浮かぶ。
百鬼夜行の夜。
抱き寄せられた腕。
耳元の低い声。
近すぎた距離。
そして今。
壁を蹴って跳ぶ惟成。
(だめだ!!繋げて考えちゃだめぇぇぇ!!)
紗世、両手で顔を覆う。
右近が、にやにやしながら顔を覗き込んだ。
「和泉。」
「な、なに……。」
「今、かなり具体的な想像したでしょう。」
「してない!!」
「絶対した。」
「してないってば!!」
すると年上の女房が、扇で口元を隠しながら小さく笑った。
「でも惟成様って、一度好きになったら執着凄そう。」
「……あ。」
「確かに。」
「他の姫君に目移りする感じしないものね。」
「むしろ、好きな相手には重そう。」
「逃がしてくれなさそう……。」
「一晩中離してくれなかったりして。」
「きゃあああ!!」
紗世。
「〜〜〜〜〜っ!!!」
右近、ついに耐え切れず吹き出した。
「和泉、耳まで真っ赤。」
「右近んんんん!!」
その頃、鞠庭では
「惟成。」
源氏の君が肩を震わせながら言った。
「はい。」
「お前、気付いておるか?」
「何をでしょう。」
「御簾の内の姫君達が大変なことになっておる。」
惟成はちらりと御簾を見る。
だが当然、理由は全く分かっていない。
「……?」
頭中将が即答した。
「お前が原因だ。」
───パンッ!!
鋭い音。
「あ。」
誰かが声を漏らした。
若い公達の一人が蹴った鞠が、大きく逸れたのだ。
しかも真っ直ぐ、女衆がいる部屋の方へ。
「きゃっ!!」
姫君達が悲鳴を上げる。
女房の一人など、完全に固まっていた。
避けられない。
そう思った瞬間。
───ダン!!
惟成が動いた。
「!?」
欄干へ片足。ほとんど跳ぶように、軽々と乗り越える。
「えっ。」
「は!?」
御簾の内、騒然。
惟成は着地と同時に、身体を捻った。
そして
───バシィッ!!
飛んできた鞠を、見事に蹴り返す。
鞠は綺麗な弧を描き、再び庭へ戻った。
静寂。
近くにいた女房は、呆然としていた。
ほんの目の前。
惟成の狩衣が風を切る。
鍛えられた身体。
低い呼吸音。
近い。
近すぎる。
惟成は真顔のまま、女房へ視線を向けた。
「失礼。」
低い声。
「お怪我は?」
「ぁ……。」
女房、真っ赤。
「い、いえ……。」
声が裏返る。
惟成は小さく頷いた。
「それなら良かった。」
そのまま何事も無かったかのように、再び欄干を越え、庭へ戻っていく。
静寂。
そして
───きゃああああああっ!!!
御簾の内、大爆発。
「近っっっ!!!」
「今の見た!?見た!?」
「顔!!顔が近かった!!」
「声ぇぇぇ!!」
「“お怪我は?”って!!」
「無理無理無理!!」
「絶対腰抜ける!!」
右近など、もう笑いが止まらない。
「あはははは!!」
紗世は両手で顔を覆った。
「〜〜〜〜っ!!」
別の姫君が、完全に蕩けた顔で呟く。
「惟成様って……。」
「?」
「絶対、咄嗟に庇ってくださる殿方だわ……。」
「分かる……。」
「しかも、助けたあと自覚無さそうなのが罪深い……。」
「それ!!」
「助けられた方だけ一生忘れられなくなるやつ……。」
「惟成様、自分がどれだけ破壊力あるか分かってないのよ……。」
「普段あんな静かなのに、動いた瞬間だけ急に男らしいの反則では?」
「しかも戻っていく時の背中……。」
「分かるぅぅぅ!!」
さらに年上の女房が、ぽつりと呟いた。
「……あんな殿方って独占欲もすごそう……。」
「!!!!」
空気が変わる。
「むしろ、独占して……っ。」
「普段静かな人ほど、怒ると怖いのよ……。」
「しかも惟成様、感情表に出さないから余計に……。」
「静かに囲い込まれそう……。」
「逃げ道全部塞がれて、“こちらへ”とか言われたい……。」
「きゃあああ!!」
紗世。
「〜〜〜〜〜っ!!!」
限界。
右近、肩を震わせながら覗き込む。
「和泉。」
「な、なに……。」
「今、“こちらへ”想像したでしょう。」
「してないぃぃぃ!!!」
その頃、鞠庭では
頭中将が腹を抱えて笑っていた。
「惟成……っ、お前、姫君達を何人落とせば気が済む!!」
惟成は少し考え込む。
「……落とす?」
真顔。
「誰も池には落ちていないかと。」
「違う!!!」
頭中将、即座に突っ込む。
源氏の君は笑いすぎて肩を震わせていた。
「っはははは!!惟成、お前、本当に分かっておらぬのか!」
惟成は首を傾げる。
「……?」
良少将が呆れたように言う。
「惟成殿、御簾の内を見てみろ。」
惟成、ちらりと御簾を見る。
姫君達。
慌てて扇で顔を隠す。
「きゃっ!」
「見た!」
「こっち見た!!」
「無理!!」
「死ぬ!!」
御簾の内、再び騒然。
惟成はさらに困惑した。
「……何故騒がれているのです?」
惟成が真顔で問う。
頭中将、ついに蹲った。
「駄目だこいつ!!」
源氏の君は笑いすぎて涙を拭っている。
「本人だけ何も分かっておらぬのが、一番恐ろしい……っ!」
蹴鞠庭は、最後まで笑いに包まれていた。
夏風が吹く。
枝の若葉が揺れ、空には夕暮れの色が滲み始めていた。
「今日はこの辺りにしておくか。」
源氏の君が笑いながら言う。
「これ以上やれば、庭木が死ぬ。」
「あと姫君達も。」
頭中将が真顔で付け加える。
御簾の内から、「きゃあっ」と抗議とも悲鳴ともつかぬ声が飛んだ。
惟成だけが、本気で不思議そうな顔をしている。
「……?」
その様子に、また笑いが起こった。
やがて若い公達達が、それぞれ帰り支度を始める。
笑い疲れた顔。
汗を流した顔。
穏やかな夏の夕暮れ。
頭中将は、蹴鞠を軽く足元で受けながら、ふと空を見上げた。
右大臣。
百鬼夜行。
源氏の君への警戒。
自分へ向けられた言葉。
胸の奥に重く沈んでいたものが、まだ消えた訳ではない。
けれど、今、目の前では源氏の君が楽しそうに笑い、惟成が天然な発言で周囲を困らせ、姫君達は御簾の内で騒いでいる。
それは、何でもないようで、とても穏やかで、失いたくない光景だった。
頭中将は、小さく息を吐く。
(……やはり。)
鞠を軽く蹴り上げる。
夕空へ舞う。
(源氏の君や、惟成を……陥れるような真似は、したくはないな。)
静かに、心の底からそう思った。
───その時
「頭中将。」
源氏の君が声を掛ける。
「何を難しい顔をしておる?」
「いや。」
頭中将は笑った。
「惟成を次から出入り禁止にするべきか考えていただけだ。」
「何故です。」
惟成が即座に反応する。
源氏の君、吹き出す。
「庭木を蹴るからだ!!」
夕暮れの左大臣邸に、再び笑い声が響いた。




