第182話 蹴鞠
───左大臣邸
夏の爽やかな陽に包まれた午後。
左大臣邸では、若い公達達による蹴鞠の会が催されていた。
主催は左大臣家。
源氏の君や頭中将が参加することもあり、都でも有名な華やかな催しだった。
当然、見物の姫君や女房達も多い。
六条御息所も招かれていたが、今日は気分が優れず不参加。
代わりに、女房達だけが見物へ来ていた。
「和泉、こっちこっち!」
右近に手を引かれ、紗世は御簾の内へ座らされる。
周囲には、他家の姫君や女房達。
皆、そわそわと落ち着かない。
「今日は源氏の君がいらっしゃるのよ。」
「頭中将様も。」
「それに───」
ひそひそ声。
「あの惟成様が初めて蹴鞠へ出られるそうよ。」
一気に空気が変わった。
「まぁ!」
「本当に!?」
「武芸の天才っていう……?」
「でも蹴鞠なんてなさるの?」
「絶対怖いわ。」
「でも見たい……!」
紗世は嫌な予感しかしなかった。
「惟成、絶対やらかす……。」
ぽつり。
右近が吹き出す。
「本人に聞かれたら怒られるわよ。」
「だって、惟成って加減がおかしいもん……。」
そんな話をしている間に、庭がざわついた。
若い貴族達が現れる。
まずは源氏の君。
柔らかな直衣姿。
夏の光の中、まるで絵巻から抜け出したような美しさだった。
「源氏の君……。」
ため息が漏れる。
続いて頭中将。
華やかで、明るく、人を惹きつける笑顔。
さらに良少将、藤中納言、蔵人少将など、若い公達達が次々現れる。
皆、優雅な装いだった。
そして最後。
「……あ。」
紗世が小さく声を漏らした。
惟成だった。
武官らしく引き締まった身体。
他の公達達の雅やかな空気とは違い、どこか鋭い。
だが、その姿が現れた瞬間。
御簾の内がどよめいた。
「まぁ……。」
「思ったよりずっと……。」
「綺麗なお顔……。」
「でも怖い……。」
「分かるわ……。」
「近寄り難いのに目が離せない……。」
惟成はそんな視線など意に介さず、源氏の君へ一礼した。
源氏の君は笑う。
「惟成。」
「はい。」
「今日は武芸ではない。」
「承知しております。」
「加減を覚えて帰れ。」
「努力は致します。」
頭中将が即座に吹き出した。
「その返答が既に不安だ。」
良少将が苦笑する。
「本当に大丈夫なのか……?」
蔵人少将も小声で呟いた。
「鞠が壊れぬと良いが……。」
やがて、蹴鞠が始まった。
まずは源氏の君。
軽やか。
流れるよう。
まるで舞のような足運び。
「素敵……。」
姫君達がうっとりする。
頭中将も鮮やかだった。
軽快で華やか。
見ていて楽しい。
良少将は丁寧。
藤中納言は柔らかい。
それぞれに個性があり、実に優雅な遊びだった。
───そして
「惟成殿!」
ついに鞠が惟成へ回る。
その瞬間。
惟成の目付きが変わった。
紗世が青ざめる。
「右近。」
「なに?」
「惟成、完全に戦う顔してる。」
「えっ。」
次の瞬間。
───バッ!!
惟成の身体が跳ねた。
「!?」
見物席がどよめく。
高く舞い上がった惟成が、空中で身体を捻る。
そのまま、信じられない角度から鞠を蹴り返した。
───ボッ!!
物凄い音。
飛んだ鞠が、頭中将の袖を掠め───
ビリッ。
「あっ。」
頭中将の狩衣の袖が裂けた。
静寂。
惟成、止まる。
頭中将、自分の袖を見る。
「…………。」
数秒後。
源氏の君。
「っはははははは!!」
大爆笑。
頭中将も吹き出した。
「待て待て待て!!蹴鞠で袖を破るな!!」
「申し訳ありません。」
惟成は真顔だった。
「加減はしたのですが。」
「その結果がこれか!?」
良少将が後退る。
「怖っ。」
蔵人少将も真顔。
「今、鞠が矢みたいな音しなかったか?」
藤中納言が引いていた。
「これ、本当に同じ遊びか……?」
御簾の内も騒然。
「ええぇぇ!?」
「怖い怖い怖い!!」
「鞠ってあんな音するの!?」
紗世は両手で顔を覆った。
「だから言ったのにぃぃ……!!」
右近が肩を震わせる。
「っふ……あははは……!」
だが悲劇は終わらなかった。
再び惟成へ鞠が回る。
今度こそ慎重に───
そう見えた次の瞬間。
───ドゴォッ!!
「!!!!?」
鞠が庭木へ突き刺さった。
完全にめり込んでいる。
全員停止。
風だけが吹く。
惟成、庭木を見る。
「…………。」
良少将、青ざめる。
「木に……刺さった……。」
蔵人少将。
「鞠って刺さるものだったか……?」
藤中納言。
「いや、初めて見た。」
頭中将、腹を抱える。
「だめだ……っ、無理だ……っ!」
源氏の君は笑いすぎて立っていられない。
「惟成……!お前、蹴鞠を何だと思っている……っ!」
「鞠を落とさぬ遊戯かと。」
「間違ってはいない!!」
最初こそ怯えていた姫君達だったが、次第に別の熱を帯び始めていた。
「……でも。」
とある姫君がぽつりと呟く。
「凄かったわ……。」
「え?」
「激しく鋭いのに……何故あんなにも流麗なのかしら……。」
「分かる……。」
「動きが綺麗……。」
「武芸みたいだった……。」
「なのに優雅だったわ……。」
熱を帯びた声が広がる。
そして。
別の姫君が、扇で口元を隠しながら小さく呟いた。
「……夜も、あんな感じになるのかしら……。」
「!!!!?」
御簾の内、大爆発。
「ちょっ……!」
「まぁぁぁ!!」
「やだ!!」
「声が大きい!!」
紗世。
ぶわっと顔が赤くなる。
(よ、夜!?)
一瞬。
脳裏に、惟成の腕力が浮かぶ。
抱き寄せられ。
押さえ込まれ。
あの真顔で迫られ───
「〜〜〜〜っ!!」
紗世、真っ赤。
右近が横からニヤニヤ覗き込む。
「和泉?」
「な、なに……。」
「今、想像したでしょう。」
「してない!!!」
「顔。」
「わあああああ!!」
その頃。
鞠庭では。
「惟成、もう少し優雅さをだな……。」
源氏の君が笑いながら言う。
惟成は真顔で答えた。
「優雅とは何でしょう。」
頭中将が即答した。
「庭木を破壊しないことだ。」
───
「次、参るぞ!」
頭中将が笑いながら鞠を蹴り上げる。
高く舞った鞠が、夏空に弧を描いた。
それを惟成が見上げる。
紗世の嫌な予感が一気に膨れ上がった。
「右近。」
「なに?」
「今の惟成、“獲物を見た鷹”みたいな目してる。」
「もう駄目じゃない。」
次の瞬間。
───バッ!!
惟成が跳んだ。
「!?」
見物席がどよめく。
高い。
明らかに高すぎる。
そして惟成は空中で身体を反転させた。
「……は?」
紗世、停止。
完全に宙返りしている。
そのまま
───ドォン!!
逆さの体勢から、鞠を蹴り抜いた。
「!!!!?」
鞠が空気を裂き、一直線に飛ぶ。
若い公達達が本気で避けた。
「危なっ!!」
「避けろ!!」
「鞠で死ぬ!!」
良少将が飛び退き、蔵人少将は転び、藤中納言は袖を押さえて蹲った。
その横で源氏の君、腹を抱えて爆笑。
「っはははははは!!」
頭中将は笑いすぎて涙が出ている。
「惟成!!それ蹴鞠ではない!!」
惟成は真顔だった。
「今のは上手く参りました。」
「技術の問題ではない!!」
御簾の内は大騒ぎ。
「何今の!?」
「人ってあんな動きするの!?」
「怖い怖い怖い!!」
紗世だけは、別方向で固まっていた。
(オーバーヘッドキック……。)
現代でも、テレビくらいでしか見たことがない。
それを、まさか、平安時代。
しかも源氏物語の世界で見るとは思わなかった。
(なんで千年前でサッカー技術が進化してるの!?)
頭が追いつかない。
右近が震えていた。
「和泉……。」
「なに……。」
「惟成様、本当に人間?」
「私も今ちょっと分からなくなってきた……。」
その頃、鞠庭では
「次は普通にやれ!!」
頭中将が腹を抱えながら叫ぶ。
「普通とは。」
惟成が真顔で聞き返す。
「今まで何だと思っていた!!」
源氏の君は笑いすぎて立てない。
「駄目だ……っ、惟成を蹴鞠へ呼んだのは失敗だったかもしれぬ……っ!」
だが、そんな混乱の中でも惟成の動きは、異様に美しかった。
鋭い。
速い。
無駄がない。
なのに
何故か流れるよう。
武芸の動きなのに、どこか舞のような美しさがある。
姫君達の熱は、むしろ上がっていた。
「……凄い。」
「怖いのに、目が離せない……。」
「動きが綺麗すぎる……。」
「あんな風に笑う源氏の君初めて見たわ……。」
「頭中将様も涙出るほど笑ってる……。」
そこへ再び鞠が惟成へ渡る。
「今度こそ優雅に!!」
頭中将が叫ぶ。
惟成。
真剣な顔で頷いた。
「承知。」
次の瞬間。
───タン。
軽い音。
「……お?」
今度は普通だった。
優しく蹴り上げる。
若い公達達が安堵する。
「よかった……。」
「普通だ……。」
「生きた心地がしなかった……。」
だが鞠が少し逸れた。
普通なら、そこで終わる位置。
──その瞬間
惟成が走った。
速い。
いや、速すぎる。
───ダン!!
庭木へ片足を掛ける。
「!?」
そのまま。
木を蹴った。
さらに。
塀へ跳ぶ。
「えっ。」
「は!?」
若い貴族達、完全停止。
惟成は壁を蹴り、空中で身体を捻りながら───
───バシィッ!!
凄まじい音。
鞠が見事に戻った。
しかも、何事も無かったかのように、静かに着地。
静寂。
良少将が真顔で呟く。
「……今、庭木と壁を走らなかったか?」
蔵人少将も真顔。
「蹴鞠とは、あのように命懸けの遊びだったのか……?」
藤中納言。
「いや絶対違う。」
頭中将、ついに笑い崩れる。
「っははははは!!無理だ!!」
源氏の君も、笑いすぎて涙を拭っている。
「惟成……っ、お前は一体どこを目指しておるのだ……!」
惟成は少し考え込み。
「鞠を落とさぬようにと。」
「だから何故壁を走る必要がある!!」




