第181話 水面下の警戒
───四条邸
夕刻。
西日が庭を淡く染めていた。
紗世は縁側へ座り込んだまま、ぼんやり庭を見つめていた。
頭中将から聞いた話が、頭から離れない。
右大臣。
百鬼夜行。
死者への恐れ。
源氏の君。
そして───惟成。
胸の奥が、ずっとざわついていた。
───その時
「紗世。」
聞き慣れた低い声がした。
紗世が振り返る。
惟成だった。
濃い色の狩衣。
武官らしく無駄のない姿。
腰には太刀。
昼間の柔らかな空気とは違い、どこか張った気配を纏っていた。
だが紗世はその姿を見た瞬間、少しだけ安心した。
「惟成……。」
惟成は紗世の顔を見るなり、僅かに眉を寄せた。
「何かあったな。」
即答だった。
「えっ。」
「顔色が悪い。」
紗世は思わず視線を逸らした。
「……そんな分かりやすい?」
「かなり。」
さらりと言われる。
惟成は縁側へ上がると、紗世から少し距離を空けて座った。
「誰かに何か言われたか。」
「違う。」
「では何だ。」
相変わらず単刀直入だ。紗世は少し迷った。
だが結局、隠せる気がしなかった。
「……今日、頭中将様が来たの。」
惟成の目が僅かに動く。
「頭中将殿が?」
「六条御息所様の邸に。」
惟成は静かに続きを待った。紗世は小さく息を吐く。
「右大臣様が、最近、源氏の君を危険視してるって……。」
その瞬間、惟成の空気が変わった。
ほんの僅か。だが、紗世には分かった。
「百鬼夜行の夜以降、変わったみたいで……。」
紗世は頭中将から聞いた話を、途切れ途切れに説明した。
祟りを恐れていること。
“祟られぬほどの栄華”を求め始めたこと。
源氏の君を“潰すべき相手”として見ていること。
そして、周囲の人間まで警戒し始めていること。
「惟光様。」
「……。」
「惟成。」
惟成の表情が消えた。
紗世は唇を噛む。
「あと、父上も……。」
沈黙。
風が庭木を揺らした。
惟成はしばらく何も言わなかった。
やがて
「……そうか。」
それだけ。
静かすぎる声だった。
紗世は不安になる。
「惟成……?」
「頭中将殿は、他に何と。」
「え?」
「右大臣様が、どこまで本気か。」
紗世は首を横に振った。
「そこまでは……。」
惟成は静かに視線を落とした。その横顔は、妙に冷静だった。
だから逆に怖い。
紗世は思わず言った。
「ねえ、惟成。」
「なんだ。」
「……気を付けて。」
惟成が紗世を見る。
「なんか、嫌な感じがするの。」
紗世は自分でも、うまく説明出来なかった。
「まだ何も起きてないし、考えすぎかもしれないけど……。
でも、百鬼夜行の後から、全部空気がおかしいっていうか……。
右大臣様も、頭中将様も、なんか……怖かった。」
言葉に詰まる。
すると惟成が静かに言った。
「紗世。」
「……うん。」
「お前は、人の変化を見るのが上手いな。」
紗世が少し目を瞬く。惟成は庭を見たまま続けた。
「恐らく、お前の感じていることは間違っていない。」
その言葉に、紗世の胸がざわついた。
「じゃ、じゃあ……!」
「だが。」
惟成は落ち着いた声で遮る。
「俺より危ういのは、検非違使尉様だ。」
「え?」
紗世が目を見開く。
「なんで!?」
惟成は淡々と言った。
「検非違使尉様は正しい。故に、嫌われやすい。」
紗世は言葉を失った。
惟成は続ける。
「右大臣が本格的に動けば、俺のような若造より、まず邪魔になるのは検非違使尉様だ。」
「そんな……。」
紗世の顔が青ざめる。
惟成はそんな紗世を見て、少しだけ声を和らげた。
「だからこそ、お前がすぐ検非違使尉様へ話さなかったのは正解だ。」
紗世が顔を上げる。
「……え?」
「お前は、“父上なら動く”と思ったのだろう。」
図星だった。紗世は小さく頷く。
惟成は小さく息を吐いた。
「その通りだ。検非違使尉様は、見過ごせぬ。だから危うい。」
紗世はぎゅっと袖を握る。
「……どうしたらいいの。」
珍しく弱い声だった。
惟成は少し黙った後、静かに答えた。
「今はまだ、動かぬ。だが、備える。」
「備える?」
惟成は紗世を見た。
「お前も。」
「え?」
「しばらく、一人で動くな。六条御息所様の邸でも、帰りでも。なるべく供を付けろ。」
紗世が目を丸くする。
「そ、そんな大袈裟な……。」
「大袈裟なくらいで丁度良い。」
即答だった。
紗世は少し黙る。
やがて。
「……惟成。」
「なんだ。」
「怒ってる?」
惟成が僅かに眉を動かす。
「何に。」
「私が、頭中将様から先に聞いたこと……。」
惟成は数秒沈黙した。
そして
「少し。」
「えっ。」
「俺より先に、頭中将殿から相談される程の仲だったかと思った。」
紗世が目を見開く。
「ち、違っ……!」
惟成は無表情のまま言った。
「冗談だ。」
「絶対嘘!!」
紗世が思わず声を上げる。
その反応に、惟成の口元がほんの少しだけ緩んだ。
───数日後、六条御息所邸
「和泉殿。」
女房が声を掛けてきた。
「頭中将様から文です。」
「頭中将様?」
紗世は少し驚きながら文を受け取った。
開く。
流れるような美しい筆跡。
『数日後、左大臣邸にて蹴鞠の会を催す。源氏の君も、惟成殿も参加予定だ。和泉殿達も見物へ来られると良い。』
「……蹴鞠会?」
右近が興味津々で覗き込む。
「行くわよね!?」
「う、うん……。」
紗世は文を見つめたまま、少し黙った。
数日前。
頭中将から聞いた話が、まだ頭に残っている。
右大臣。
百鬼夜行。
源氏の君への警戒。
惟成や父まで、警戒対象になっていること。
あの時の頭中将は、珍しく迷いと疲れを滲ませていた。
だが今届いた文は、驚くほど“いつも通り”だった。
『蹴鞠を見に来い』
ただそれだけ。
肩の力が抜けるような、いつもの頭中将。
紗世はふと考える。
(……頭中将様が蹴鞠会を催すなんて……いつも通りだけど……。)
縁側の外へ視線を向ける。
夏の風が吹いていた。
(……いや。)
紗世は小さく目を伏せた。
(あんな事を言われたからこそ……。いつも通りにして、安心したいのかな……。)
頭中将は、源氏の君の親友。
だが同時に、右大臣家の婿でもある。
板挟み。
それでも源氏の君との関係を、今まで通りに保とうとしている。
蹴鞠会も、その一つなのかもしれない。
「和泉?」
右近が首を傾げた。
紗世ははっと顔を上げる。
「……うん。行く。」
「本当!?やった!」
右近が嬉しそうに笑う。
「惟成様、絶対何かやらかすわよ。」
「私もそう思う……。」
思わず即答してしまい、二人で吹き出した。
笑いながらも、紗世は少しだけ思っていた。
どうか、あの日の重い話など忘れてしまうくらい、いつも通りの時間になりますように、と。




