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第180話 権謀術数

───右大臣邸


夜。


庭の灯籠だけが、ぼんやりと庭を照らしていた。


右大臣は一人、酒杯を手にしていた。


だが、酒は進まない。脳裏から離れぬ。


あの夜、朔の闇。


朱雀大路を北上する異形の列。


そして、右大臣邸の前で止まった牛車。


簾の向こう。恨みを滲ませるような気配。冷たい視線。


───あれは、間違いなく。


“自分が踏み潰してきた者達”だった。


右大臣は静かに目を閉じた。


ふと耳元で


───チリン……


鈴の音が聞こえた気がした。右大臣の手が止まる。


だが庭には誰も居ない。


静寂だけ。


「……っ。」


無意識に酒杯を強く握る。


───祟り。


その言葉が、脳裏をよぎる。


平安の世において死者の怨みほど恐ろしいものは無い。


怨霊は


弱った者


失脚した者


運を失った者へ食らいつく。


ならば祟れぬほどの栄華を得れば良い。


誰よりも高く。誰よりも強く。誰も手出し出来ぬほどに。


右大臣の目がゆっくり開く。


「……源氏。」


低く呟いた。


光り輝く存在。帝の寵愛。人望。血筋。才。


そして今や葵の上との仲も良好。


子まで生まれれば、源氏の君の地盤は盤石となる。


───危険だ。


右大臣は静かに息を吐いた。


「先に、削がねばならぬ。」


源氏の君本人。そして、その周囲。


右大臣は机上の文を見た。


最近集めさせている、源氏の君周辺の人物についての報告。


その中の一枚へ目を落とす。


「……源惟光。」


源氏の君の随身。忠義に厚い男。


そしてその息子。


───源惟成。


右大臣の目が細まる。


若年ながら、異様な速度で出世を重ねる兵衛尉。


武芸の天才。


帝の覚えも良い。


しかも父・惟光は源氏の君へ忠実。


ならば息子も自然と源氏側。


「若い芽ほど、早く摘むべきか。」


ぽつりと落ちる声。


さらに別の文。


───藤原兼成。


検非違使尉。


実直。


不正を嫌う。


融通が利かぬ。


そして惟光とも親しい。


右大臣は僅かに眉を寄せた。


こういう男が、一番厄介だ。


賄賂で動かぬ。脅しも効きにくい。


しかも民や下役人からの評判が妙に良い。


正義感というものは、時に権力より危険になる。


「……邪魔だな。」


その時。


簾の向こうから声がした。


「頭中将様がお見えにございます。」


右大臣は視線を上げる。


「通せ。」


やがて。


頭中将が部屋へ入って来た。


「お呼びでしょうか、義父上。」


端正な姿。礼儀も崩れぬ。


だが右大臣はその顔を静かに見た。


───源氏の君と親しい男。


今までは、まだ若い、政治の裏など分からぬと思っていた。


だが使えるものは使う。


右大臣は淡々と言った。


「源氏についてだ。」


頭中将の空気が少しだけ変わる。


「……源氏の君、ですか。」


「お前、親しいのであろう。」


「ええ。」


右大臣は酒杯を置いた。


「弱味を知らぬか。」


頭中将は少し黙った。


「弱味……。」


「何でも良い。」


右大臣の声は静かだった。


「女でも、金でも、失態でも。掴めるものは掴め。」


頭中将は義父の顔を見た。


その目に宿るものを見て、胸の奥が重くなる。


百鬼夜行の夜以降、義父は変わった。


いや、変わったのではない。隠れていたものが、表へ出始めたのか。


頭中将は静かに答える。


「……確かに親しくはあります。ですが、深い話までは。

以前は色恋の話も多くありましたが、最近は葵の上との関係も良好です。女絡みの話も、ほとんど聞きません。」


右大臣は不満げに目を細めた。


「ならば探れ。弱味の無い人間など居らぬ。」


「……。」


頭中将は返事をしなかった。


脳裏に浮かぶ。


百鬼夜行。


右大臣邸の前で止まった異形の列。


義父は、あれほど死者に恨まれている。


それなのに、まだ権力を求めるのか。


まだ誰かを踏み潰そうとするのか。


頭中将は、胸の奥に滲む失望を押し隠した。


だが婿という立場。逆らえる訳が無い。


「……承知しました。」


右大臣は満足げに頷く。


「下がって良い。」


頭中将は静かに退出した。




───渡殿


夜風が吹く。


頭中将は歩きながら、小さく息を吐いた。


「……源氏の君に話す訳にもいかぬ、か。」


親友だ。


しかし今この話をすれば、源氏の君は間違いなく動く。


そして右大臣家との衝突が早まる。


それは避けたい。


頭中将は立ち止まった。


ふと、脳裏に、一人の顔が浮かぶ。


和泉。


六条御息所の女房。四条邸の不思議な姫。


時折、思いもよらぬ視点で物を言う。


以前、源氏の君が苦笑混じりに言っていた。


───「和泉殿に相談すると、妙な方向から答えが返って来る。」


頭中将は小さく笑った。


「……そういえば。」


夜空を見上げる。


「和泉殿に、相談してみるか……。」



───六条御息所邸


「頭中将様?」


女房が少し驚いたように声を上げた。


「はい。和泉殿へ、お取次ぎを。」


頭中将は穏やかに微笑んだ。


やがて


「和泉殿がお会いになります。」


案内された先。


簾の向こうから、柔らかな声が聞こえる。


「頭中将様が、私に御用なんて珍しいですね。」


「突然すまない。」


「いえ。」


少し笑う気配。


「もしかして、源氏の君絡みです?」


頭中将が僅かに目を見開く。


「……なぜ分かった。」


「なんとなくです。」


さらりと返され、頭中将は苦笑した。


「やはり妙な勘をしておられる。」


「褒め言葉として受け取ります。」


その軽いやり取りに、頭中将の張っていた気が少し緩んだ。


「……実は。」


頭中将は声を落とした。


「義父上が、最近、源氏の君を危険視しておられる。」


簾の向こうの気配が少し静まる。


「以前から対抗意識はあった。」


頭中将は低く続けた。


「だが、百鬼夜行の夜以降……明らかに変わられた。」


紗世が小さく息を呑む。


「変わった……?」


「怯えておられるのだと思う。」


「……怯える?」


「死者の祟りを。」


静寂。


頭中将はゆっくり息を吐いた。


「義父上は、“祟られぬほどの栄華を得ねばならぬ”と考えておられるように見える。

そのために、源氏の君を危険視し始めた。」


紗世の表情が少し曇る。


「そこまで……。」


「今は、“潰さねばならぬ相手”として見ておられる。

源氏の君の弱味を探れと言われた。」


しばし沈黙。


やがて


「頭中将様は、どうされたいのですか?」


静かな問い。


頭中将は少し言葉に詰まった。


「……分からぬ。

源氏の君は親友だ。だが、私は右大臣家の婿でもある。」


紗世がぴたりと止まった。


「……え?」


「ん?」


「……え?」


頭中将が瞬きをする。


簾の向こうから、少し慌てた気配が伝わってきた。


「えっ、待ってください、頭中将様って……右大臣様の……婿……?」


「……知らなかったのか?」


「し、知りませんでした!!」


頭中将は思わず苦笑した。


「では、源氏の君の北の方…葵の上が私の姉なのも?」


「……え?」


「源氏の君とは義兄弟になる。」


「えええ!?」


簾の向こうで、がたっと何か倒れる音がした。


「和泉殿?」


「す、すみません!今びっくりして……!」


頭中将は思わず額へ手を当てた。


「源氏の君から、ある程度聞いているものと思っていた。」


「いえ全然!!」


紗世は本気で混乱していた。


(えっ!?待って!?

頭中将って、右大臣側の人なの!?

しかも葵の上の弟!?元は左大臣家!?

じゃあ源氏の君とは義兄弟!?

えっ、源氏物語ってそんな人間関係だったっけ!?)


現代に居た頃、源氏物語は有名な部分しか知らなかった。


まさか、こんな複雑な関係だったとは。


「……和泉殿。」


「は、はい。」


「今、かなり混乱しておられるな?」


「しております……。」


頭中将は少し吹き出した。


「源氏の君が、“和泉殿は妙な所が抜けている”と言っていた理由が分かった。」


「そんなことまで言われてるんですか!?」


「安心しろ。褒めていた。」


「絶対違う!」


頭中将が声を立てて笑った。


だが。


笑いはすぐ静まる。


「……その義父上が、源氏の君だけでなく、周囲も警戒しておられる。」


紗世の空気が変わった。


「周囲……?」


「惟光殿。その息子の惟成殿。それに和泉殿のお父上、兼成殿も。」


その瞬間。


簾の向こうの気配が止まった。


頭中将は僅かに眉を寄せる。


「和泉殿?」


静かな声が返る。


「……理由は?」


「惟成殿は武芸。若くして出世が早過ぎる。

兼成殿は、義父上が最も嫌う種類の方だ。不正を嫌い、融通が利かぬ。」


紗世は黙っていた。


だが先程までの慌てた空気が消えている。


頭中将は続けた。


「惟光殿が源氏の君へ忠義深い故、惟成殿も自然と源氏側と見ておられるようだ。」


沈黙。


紗世が小さく言った。


「……なんだか、怖いです。」


頭中将が目を細める。


「怖い?」


「うまく言えないんですけど……。」


紗世は少し迷うように続けた。


「源氏の君だけじゃなくて、周りまで警戒してるんですよね?」


「……ああ。」


「それって……」


少し考え込む。


「疑う相手が、どんどん増えてるってことじゃないですか?」


頭中将は黙った。


紗世はさらに静かに言う。


「百鬼夜行を見た後から、なんですよね……?」


「だったら……右大臣様、すごく追い詰められてるんじゃないかなって……。

だから、“右大臣様にとって危ない人”を増やしてるように見えるというか……。」


頭中将は静かに和泉を見つめた。


鋭い政治論ではない。


だが妙に核心を突いている気がした。


沈黙。


やがて紗世が小さく息を吐く。


「……惟成には伝えます。」


頭中将が目を細めた。


「兼成殿ではなく?」


紗世は言いかけて、止まった。


父の顔が浮かぶ。


兼成は真っ直ぐだ。


不正を嫌い、危険と分かれば放っておけない。


もし伝えれば、きっと動く。


真正面から。


(……それ、絶対危ない。)


紗世は小さく唇を噛んだ。


それに、まだ何かされた訳ではない。


“嫌な感じがする”


その程度で、父を巻き込んで良いのかも分からない。


「……父上に言ったら、多分動きます。」


静かな声だった。


「でも、まだ……確かな訳じゃないから……。」


頭中将は黙って聞いていた。


紗世は少し迷った後、小さく続ける。


「惟成の方が……こういう時、冷静なんです。」


その言葉に、頭中将が僅かに目を細める。


「和泉殿。」


「はい。」


「惟成殿の話になると、急に顔色が変わるな。」


簾の向こうで、気配が止まる。


そして。


「……気のせいです。」


少し早口だった。


頭中将は思わず吹き出した。


「それは無理がある。」


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