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第178話 惟成の四条邸お泊まり

百鬼夜行が去った後。


都を覆っていた禍々しい気配は、僅かに薄れていた。


だが。


まだ空気は重い。


冷たい怨気が、夜の都へ澱のように残っている。


───四条邸


紗世は惟成の腕の中で、小さく身動ぎした。


「……百鬼夜行……終わった……のかな……?」


恐る恐る顔を上げる。


惟成はしばし外の気配を探るように目を細めた。


「……そのようだな。」


低く答える。


そして。


「では、俺は帰る。」


「えっ!!?」


紗世が勢いよく顔を上げた。


惟成は立ち上がろうとする。


(虎徹から、百鬼夜行を見た程度では死なんとは聞いているしな。)


それに、いつまでも未婚の姫の邸へ居座る訳にはいかない。


だが


「ちょっと待って!!!」


紗世が慌てて惟成の腕へしがみついた。


「まだ変なの残ってたらどうするの!!」


「俺の邸は二軒隣だ。問題ない。」


「ありまくりだよ!!」


紗世は半泣きで言い返す。


「私には散々“外見るな”とか言ってたくせに!!」


「……。」


それはそうである。惟成は少し視線を逸らした。


だが


「………いいか、紗世。よく聞け。」


真面目な声音。


紗世も思わず姿勢を正す。


「はい。」


「俺がこのままここへ泊まったら、何という噂が立つ?」


「…………。」


紗世の動きが止まった。


ここは平安時代。


男が夜、女の邸へ泊まる。


それが意味する事は一つ。


男女の契り。


たとえ何も無かったとしても、世間はそう見る。


そんな噂は一晩で都中へ広がる。


「……あ。」


紗世の顔が一気に赤くなった。


惟成は小さく息を吐く。


「分かったなら───」


「……で、でも……」


紗世はなおも惟成の腕を離さない。


「百鬼夜行が出た夜なんだよ……?」


声が小さい。


「緊急時ってことも……あるし……」


実際。


紗世の不安は消えていなかった。


百鬼夜行は去った。


だが、まだ都には何かが残っている気がする。


そんな中で惟成を一人帰す。


それがどうしても嫌だった。


しかし惟成はきっと帰ると言って聞かない。


ならば、紗世は意を決したように惟成を見上げた。


「惟成は……」


「?」


「私との……その……噂立つの、嫌なの?」


「────。」


惟成が固まった。


空気が止まる。


紗世は、自分が何を言っているのか分かっていない訳ではない。


だが、言わなければ惟成が帰ってしまう。


その焦りの方が大きかった。


紗世は小さく息を飲み込みながら続けた。


「私は……噂になっても……良いって……思ってる。」


上目遣い。


微かに潤んだ瞳。


惟成の理性が、ぐらりと揺れた。


「…………。」


無表情。


だが、崩壊寸前だった。


惟成の指が、そっと紗世の頬へ触れる。


熱を帯びた吐息。


近い。


近すぎる。


(あ……)


紗世の心臓が跳ねる。


(キス……される……?)


紗世はそっと目を閉じた。


その瞬間。


「うわっ……」


惟成の声が上がった。


「えっ?」


紗世が目を開ける。


惟成は何とも言えぬ顔で、簾の方を見ていた。


紗世もつられて視線を向ける。


簾の隙間。


そこから、兼成が覗いていた。


「きゃああああああっ!!!」


紗世、絶叫。


「落ち着け、紗世。検非違使尉様だ……。」


惟成が額を押さえながら言う。


「は!?え!?父上!!!?」


ほんとだ。


めちゃくちゃ見てる。


しかも


顔が怖い。


「こ〜れ〜な〜り〜」


怒気を孕んだ低い声が落ちる。


だが、紗世はぱっと顔を明るくした。


「そうだ!!」


「?」


「父上からも言って!!」


兼成が一瞬きょとんとする。


紗世は惟成の腕を掴んだまま叫んだ。


「惟成、百鬼夜行が出たのにこれから帰るって言うの!!危ないから今日は泊まれって父上から言って!!!」


「い……いや……姫……」


兼成、しどろもどろ。


本来なら“姫に何してる”と惟成を叩き出したい。


だが、百鬼夜行の直後。


そんな夜に外へ放り出すのも、人としてどうなのか。


しかし、娘を男と二人きりにするのも論外。


しかも、今、めちゃくちゃ良い雰囲気だった。


兼成の脳内で様々な思考が高速で駆け巡る。


姫にはまだ早い。


いやしかし危険。


だが惟成を追い出せば紗世が不機嫌になる。


いやでも近い。


顔が近い。


近すぎた。


最終的に兼成は真顔で口を開いた。


「惟成殿。」


「……はい。」


「今日は泊まってゆけ。」


惟成が僅かに目を見開く。


兼成は重々しく続けた。


「私と一緒に寝よう。」


「…………は?」


惟成、完全停止。


紗世も固まった。


夜の四条邸に、奇妙な沈黙が落ちた。




────紗世の部屋



「……っふ……うふふふふ……っ」


肩を震わせる笑い声。


「……母上、いつまで笑ってるのですか?」


紗世は呆れ半分で言った。


百鬼夜行の夜。


結局、惟成は兼成の部屋へ泊まることになった。


その結果。


いつも兼成と同じ部屋で寝ている紗世の母が、今夜は紗世の部屋へ来ている。


だが


その母が先程からずっと笑いを堪え切れていなかった。


「だ、だって……!」


再び吹き出す。


「殿ったら、“私と一緒に寝よう”だなんて……っ」


「……。」


「殿自身も微妙なお顔をされていたし、惟成殿も……ふふっ……あのお顔……」


そう。


あの言葉が飛び出した瞬間。


その場にいた全員が何とも言えぬ顔になった。


空気も妙だった。


「惟成も、“分かりました”とは言ったけど……」


紗世も思い出して、ふっと笑う。


「“この場合は分かりましたで正解なのか?”って顔してた。」


無表情なのに困惑している。


あの絶妙な顔が妙に面白かった。


母は再び肩を震わせた。


「あの二人、今頃どんなお話をされているのかしらねぇ。」


「惟成、ちゃんと寝れるのかな……。」


紗世は少し申し訳なさそうに呟く。


母はくすくす笑いながら、


「案外、殿の方が緊張してたりして。」


と言った。




───その頃


兼成の部屋。


部屋には静かな灯火だけが揺れている。


奇妙な空気だった。


惟成と兼成。


男二人、並んで布団へ入っている。


だが。


当然、どちらも全く眠れていない。


「……惟成殿。」


布団に入ったまま、兼成が低く声を掛けた。


「はい。」


「真面目に聞いても良いだろうか?」


「私はいつも真面目ですので、どうぞ。」


兼成は少し言葉を探すように間を置いた。


「……その、姫とは……いずれ……そういうつもりは、あるのか?」


言葉は濁している。


だが。


何を聞きたいのかは十分伝わった。


惟成は少し黙る。


そして。


「……私は、そのつもりでおります。」


真っ直ぐ答えた。


兼成の目が見開かれる。


「ただ───」


一拍。


「姫君も、私と同じ気持ちであれば、ですが。」


「……。」


兼成は黙り込む。


惟成は静かに続けた。


「私達は、世間一般のような恋文のやり取りをして、互いの気持ちを確かめた事は無いのです。」


「なに!?」


兼成が思わず飛び起きかけた。


「これだけ邸に来て、あんなに距離が近いのにか!?」


声が大きい。


惟成は無表情のまま、ほんの少しだけ気まずそうな空気を出した。


「……ですから、これからきちんと手順を踏むつもりです。」


「これから!?」


兼成が目を剥く。


「これからとは、いつからだ!?すぐか!!?」


妙に焦っている。


惟成は真面目に考えるように少し視線を落とした。


「私は姫君と同年です。」


「うむ。」


「姫君なら適齢でしょう。しかし男の方は、家族を支えるには経済的にも未熟と思われるのでは、と考えてしまうのです。」


兼成は少し黙った。


(そこまで考えていたのか……。)


正直、もっと勢いだけの若者かと思っていた。


だが違う。


惟成は、紗世との先を真面目に考えている。


兼成は妙に感心した。


惟成が静かに続ける。


「ですが。」


「?」


「検非違使尉様が仰っていたように、姫君へ文を贈る男達が多いのであれば、悠長な事も言っていられぬとも思います。」


「いっ……いや……。」


兼成が小さく咳払いをする。


「確かに文は贈られて来るが……。」


一拍。


「私が半分以上、握り潰している。」


キッパリ。


「…………。」


惟成、沈黙。


兼成は真顔のまま続けた。


「正直な話、父として姫はまだ手離したくない。」


そして。


「可愛い!」


再びキッパリ。


惟成は思わず黙り込む。


兼成ははぁ、と小さく息を吐いた。


「しかしだ……。」


今度は少し声が落ち着く。


「行き遅れと言われる前には、とも思う。」


惟成は少し考え、


「あと二、三年というところでしょうか。」


と答えた。


兼成は静かに頷く。


「惟成殿を認めていない訳ではない。」


惟成が兼成の方を向いた。


兼成はゆっくり続ける。


「むしろ、今までのお主を見れば、他の男達よりも姫に相応しいくらいだ。」


部屋が静かになる。


灯火だけが揺れていた。


そして兼成は、小さく笑う。


「……だからこそ、父としては複雑なのだ。」

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