第177話 鷹丸の百鬼夜行
───中務卿宮邸
都は静まり返っていた。
朔。
月の無い夜。
昼のうちから、都には不穏な空気が漂っていた。
陰陽寮からの報せ。
───今夜、百鬼夜行現る恐れあり。
その噂は瞬く間に広がり、日が落ちる頃には、都中の邸が固く戸を閉ざしていた。
女房達は怯え、童達は泣き、灯火だけが、不安げに揺れている。
そんな中、中務卿宮邸だけが、妙な緊張に包まれていた。
「宮様!!」
老臣の声が響く。
「なりませぬ!!」
鷹丸は静かに立ち上がった。
既に外出の支度は整っている。
濃い夜色の狩衣。
腰には太刀。
普段と変わらぬ姿。
だが、その空気だけが違った。
静か過ぎる。
その静けさが、逆に恐ろしかった。
「百鬼夜行を見るなど、自ら死地へ向かうようなものにございます!!」
「どうかお考え直しを!!」
郎党達も次々声を上げる。
だが。
鷹丸は答えない。
ただ、ゆっくり太刀へ手を添えた。
その仕草だけで、誰も、宮が本気だと分かってしまった。
老臣が苦しげに言う。
「何故、そこまで……。」
静かな問い。
部屋が静まり返る。
やがて、鷹丸は低く口を開いた。
「……百鬼夜行には、鬼が現れるのだろう。」
誰も答えない。
答えられない。
鷹丸は続けた。
「ならば。」
一拍。
「三条殿も、いるかもしれぬ。」
女房の一人が、小さく息を呑んだ。
皆、知っている。
宮がどれほど“三条”を想っていたか。
そして“鬼の妻となった”という噂を、未だ捨て切れていない事も。
老臣が震える声で言う。
「……もし、本当に鬼の群れの中におられたとして……どうなさるおつもりです。」
鷹丸は少し黙った。
やがて。
「……一目で良い。」
低い声。
「生きている姿を見られるなら、それで良い。」
その言葉に、女房が袖で口元を押さえた。
泣いている。
「宮様まで呪われてしまわれます……!」
「それでも構わぬ。」
即答だった。
老臣達が絶句する。
鷹丸は静かに歩き出した。
「少しでも可能性があるなら。行かぬ方が、後悔する。」
その声は静かだった。
だが決意だけは、誰にも覆せなかった。
───朱雀大路
夜。
朔の闇が、都を覆っていた。
月は無い。
灯火を消した邸ばかりで、人の気配もほとんど無い。
広い朱雀大路が、今夜は異様に暗く感じられた。
冷たい風が吹く。
供達は皆、顔色を失っている。
だが鷹丸だけは、じっと羅生門の方を見ていた。
遠く。
───ゴゥ……
低い音。
風とも違う。
地鳴りのような、不気味な響き。
供の一人が震える。
「宮様……まだ、お戻り頂けませぬか……。」
返事は無い。
その時
───チリン……
鈴の音が鳴った。
全員の身体が強張る。
来る。
誰もがそう悟った。
闇の奥。
ぼんやりと青白い火が浮かぶ。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
増えていく。
ゆらゆら揺れながら、こちらへ近付いて来る。
そして。
───ギィ……
牛車の軋む音。
だが、普通ではない。
笑い声。
呻き声。
獣の唸り。
泣き声。
様々な音が混ざり合い、夜気を震わせている。
供の一人が、とうとう耐え切れず膝をついた。
「ひっ……!」
百鬼夜行。
異形の群れが、ゆっくりと朱雀大路を北上して来る。
人の形をしたもの。
獣の顔を持つもの。
逆さにぶら下がる影。
首だけの女。
目だけが闇に浮かぶ何か。
見ているだけで、本能が逃げろと叫ぶ。
冷気が肌を刺した。
呼吸が浅くなる。
それでも。
鷹丸は目を逸らさなかった。
その時だった。
百鬼夜行の奥の牛車。
揺れる簾の向こう。
長い黒髪。
女。
白い横顔。
薄い衣。
鷹丸の目が見開かれる。
「───三条殿!!」
その声は、百鬼夜行の異音を裂くほど切迫していた。
供達が凍り付く。
鷹丸は異形の列へ踏み出そうとする。
「宮様!!」
老臣が慌てて腕を掴む。
「なりませぬ!!」
「離せ!!」
珍しく感情を露わにした声だった。
女の影が、すう、と闇へ溶ける。
消える。
まるで最初から居なかったように。
「三条殿!!」
なおも呼ぶ声。
その様子を百鬼夜行の列の中から、白猫が静かに見ていた。
虎徹である。
金色の瞳が細まる。
〈……なるほど。〉
鬼火が揺れる。
〈好奇心ではなく、未練か。〉
人ならざる者達の列へ、恐怖より執着を向ける男。
その情念の強さに、虎徹は僅かに目を細めた。
〈……危ういな。深い未練は、人を狂わせる。
死してなお執着を手放せねば、鬼にもなり得る。〉
虎徹は静かに前を向く。
百鬼夜行は止まらない。
異形の列は、そのまま都を北へ進んでいく。
鬼火。
笑い声。
牛車の軋み。
やがて。
それらも少しずつ遠ざかっていった。
静寂。
残ったのは、凍るような夜気だけ。
老臣は青い顔のまま荒い呼吸をしていた。
だが、鷹丸だけは、まだ闇を見ている。
「……今のは……。」
掠れた声。
誰も答えられない。
本当に居たのか。
幻か。
怨霊か。
誰にも分からない。
しかし、鷹丸の胸には、確かな感覚だけが残っていた。
───今、三条殿を見た。
その錯覚だけが、深く、消えずに残っていた。




