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第176話 百鬼夜行

───朔の夜


月は無い。


夜の平安京は、元より静かな都だった。


日が沈めば、人々は早々に邸へ戻り、蔀戸を閉ざす。


まして今宵は違う。


陰陽寮から、


“朔の夜、百鬼夜行の恐れあり”


との触れが出ていた。


都人達は怯え、灯火を落とし、声すら潜めている。


巨大な都が、死んだように静まり返っていた。


風だけが吹いている。


冷たい。


妙に湿った風だった。




───羅生門


巨大な門の下。


闇が、ゆらりと揺れた。


否。


闇そのものが蠢いていた。


ゴォォォォ……


冷たい風が吹き抜ける。


怨。


呪。


恨。


人ならざるもの達の気配を孕んだ風。


そして。


カラン……


カラン……


無人の牛車が現れる。


誰も引いていない。


誰も乗っていない。


その後ろから、異形達がぞろりと現れた。


鬼。


骸。


顔の無い貴族。


腕だけで這う童。


首だけの女。


都中の闇が形を得たような百鬼の群れ。


その中央を、一匹の白猫が悠然と歩く。


虎徹。


金と青の双眸が妖しく光った。


「さあ。」


虎徹が笑う。


「今宵は盛大に参ろうか。」


───ギィ……


百鬼夜行は羅生門を出た。


朱雀大路を、北へ。


ゆらり。


ゆらり。


進むほど、その数は増えていく。




───七条


閉ざされた蔀戸の向こう。


人々は息を潜めていた。


幼子の口を母親が必死に塞ぐ。


見るな。


声を出すな。


百鬼夜行に見つかれば終わりだ。


都人達はそう信じていた。


だが。


───カタ……


ある家の蔀戸が僅かに開く。


若い男が震えながら外を覗いた。


その瞬間。


スゥ……


百鬼達の首が、一斉にその家へ向いた。


「────っ!!」


男は悲鳴を呑み込み、慌てて蔀戸を閉める。


直後。


ゲタゲタゲタゲタ!!


女の笑い声。


牛の呻き。


何かを引きずる音。


都中が震えたような気がした。




───五条


百鬼夜行は止まらない。


空気が重い。


息苦しい。


まるで都そのものが悪夢へ沈んでいくようだった。


異形達は狂喜している。


屋根を跳ねる猿の妖。


車輪だけで転がる牛車。


血を引きずる女。


そして。


「右大臣……」


「右大臣……」


怨霊達の呻き声が、少しずつ混じり始める。




───四条邸


惟成は昼過ぎから四条邸へ来ていた。


理由はただ一つ。


紗世を百鬼夜行から遠ざけるため。


───正確には。


百鬼夜行の中にいるであろう虎徹を、紗世に見せないため、だった。


もし紗世が百鬼夜行の中に虎徹を見つけたら


「あっ!虎徹!!」


などと言って助けに行こうと飛び出しかねない。


惟成はそれを本気で危惧していた。


だから今日は、半ば見張りだった。


「いいか。絶対に外を見るな。」


「だから分かってるってば。」


「お前の場合、“分かってる”が信用できん。」


「ひどい。」


「事実だ。」


真顔。


紗世はむぅ、と頬を膨らませた。


だが、その時。


───カラン……


遠くから。


牛車の音が聞こえた。


紗世と惟成、二人の表情が変わる。


音はゆっくり。


だが確実に近付いてくる。


カラン……


カラン……


誰もいない夜の都に響く、不気味な車輪の音。


そして。


───ゾワリ


邸全体を、重苦しい気配が包み込んだ。


灯火が揺れる。


女房達が小さく悲鳴を上げた。


まるで、巨大な何かが邸のすぐ近くを通り過ぎて行くような圧迫感。


「……っ」


紗世の背筋が粟立つ。


外ではなお、


ガラン……


ガラン……


牛車の音が響いていた。


人ではない笑い声。


何かを引きずる音。


異形達の気配。


「……っ……」


次の瞬間。


紗世は反射的に惟成の袖を掴み、そのまま身体を寄せた。


「……紗世?」


惟成が少し目を瞬く。


「だ、だって……なんか今の本当に怖い……。」


いつもの強気が少し消えていた。


惟成はしばし紗世を見下ろす。


それから小さく息を吐いた。


「……だから見るなと言った。」


低い声。


だが責める響きは無い。


紗世は惟成の狩衣をぎゅっと掴んだまま、小さく頷いた。


その時。


───ニャァ……


遠く。


風に混じって猫の声が聞こえた気がした。


「……虎徹?」


紗世が顔を上げる。


惟成の目が鋭くなった。


「気のせいだ。」


即答。


「でも今──」


「気のせいだ。」


食い気味。


そして惟成は紗世の肩を引き寄せるようにして、自分の方へ抱き込んだ。


完全に視界封鎖。


「お前はここから一歩も動くな。」


「えぇぇ……。」


「えぇ、ではない。」


真剣だった。


惟成は今、都の怪異そのものより、


“紗世が百鬼夜行へ突撃する事”


を警戒している。


それが紗世にも何となく分かった。


「……私、そんなに信用ない?」


「無い。」


即答。


「ひどっ……。」


だがその声も小さい。


紗世は結局、惟成の胸元へ顔を埋めた。


「……まだいる?」


「ああ。」


「いっぱい?」


「……いっぱいだな。」


「聞かなきゃよかった……。」


惟成は思わず少し笑った。


その間にも、百鬼夜行は四条を北へ進んでいく。


都を覆う悪夢のような気配。


だが四条邸の一室だけは、僅かに甘く静かだった。




───三条


百鬼夜行は上級貴族街へ入る。


高貴な邸宅が並ぶ都の中心。


だが今宵ばかりは違う。


死のような静寂。


その中を。


百鬼夜行だけが進む。


ズル……


ズル……


血を引きずる女。


天井ほどある鬼。


公卿姿の骸。


そして。


ひときわ濃い怨気を纏う男。


烏帽子を被った公卿。


だが顔は腐り落ち。


目だけが憎悪に燃えている。


「右大臣……」


怨霊が呻く。


「右大臣……」


空気が震えた。


虎徹がその怨霊をちらりと見る。


〈ほう……本物がおるか。〉


面白そうに目を細めた。




───一条大路


ついに。


百鬼夜行は止まった。


右大臣邸の前。


巨大な門。


高い築地塀。


その邸を見た瞬間。


百鬼達の気配が変わる。


怒り。


憎悪。


呪詛。


都中の負の気が渦を巻く。


ビリ……ビリビリ……


邸を囲う結界が軋んだ。


邸内。


右大臣は青ざめていた。


「な……なんだ……あれは……」


庭が震える。


灯火が消える。


女房達が泣き叫ぶ。


そして。


ドン。


ドン。


ドン。


何かが門を叩く音。


怨霊の公卿が、ゆっくり門へ手を伸ばした。


腐った口が裂ける。


「……返せ。」


その瞬間。


都中の空気が凍り付いた。


「返せェェェェェ!!」


怨霊が門へ飛び掛かった。


───バギィィィン!!


右大臣邸を覆っていた結界に、大きな亀裂が走る。


「きゃああああっ!!」


女房達が泣き叫ぶ。


庭の灯火が一斉に消えた。


風が渦巻く。


異形達が笑う。


ゲタゲタゲタゲタ!!


牛車が軋む。


怨気が庭へ流れ込んだ。


右大臣は青ざめたまま後退る。


「ま……守れ!!誰か!!」


だが。


誰も動けない。


武者達も震えていた。


人ではない。


目の前にいるモノは、人ではない。


怨霊はゆっくりと右大臣を見た。


腐り落ちた顔。


落ち窪んだ眼窩。


だがその目だけは、燃えるような憎悪を宿している。


「覚えて……おるか……」


掠れた声。


右大臣の喉が鳴った。


「ひ……」


「覚えて……おるか……右大臣……」


その瞬間。


右大臣の顔色が変わる。


「ま……まさか……」


怨霊は、ゆっくり口を裂いた。


「ようやく……思い出したか……」


それは。


かつて朝廷で右大臣に逆らった男だった。


名は紀実方。


元は参議まで昇った公卿。


民へ重税を課し、私腹を肥やす右大臣を幾度も糾弾した。


だが。


結果。


失脚した。


右大臣は実方へ横領の罪を着せ、地方へ左遷したのだ。


病に伏した妻を都へ残したまま。


幼い娘も。


実方は何度も都へ戻る願文を書いた。


だが右大臣は握り潰した。


そして。


実方が地方で病死した頃。


都では。


残された妻も娘も、飢えと病で死んだ。


「貴様の……せいで……」


怨霊の声が低く響く。


「妻は死に……娘は死に……」


庭の空気が歪む。


百鬼達がざわめく。


「わしは……死んでもなお……貴様を許せぬ……!!」


───ドォォン!!


再び門が揺れた。


結界が軋む。


女房達が悲鳴を上げる。


右大臣は腰を抜かした。


「ひ……ひぃっ……!!」


「返せ……」


怨霊が一歩進む。


「わしの人生を……」


二歩。


「わしの家族を……」


三歩。


結界へ、黒い指が触れた。


───ミシ……


ヒビが広がる。


「返せェェェェェ!!」


怨霊が絶叫した。


同時に。


百鬼達が狂ったように笑い始める。


ゲタゲタゲタゲタ!!


ギャアアアア!!


牛が吠える。


女が泣く。


童が笑う。


都中の怨嗟が一斉に右大臣邸へ押し寄せていた。


その時。


───パァァァッ!!


強い光が庭を照らした。


怨霊の動きが止まる。


百鬼達が唸った。


庭の中央。


そこには、一人の老僧が立っていた。


比叡山より招かれていた高僧。


数珠を握り、静かに経を唱えている。


「南無大慈大悲観世音菩薩───」


低く響く読経。


光が広がる。


怨霊の身体から煙のような怨気が噴き出した。


「グ……ォォォ……!!」


怨霊が苦悶の声を漏らす。


だが目だけはなお右大臣を睨んでいた。


「まだ……終わらぬ……」


怨霊の声が響く。


「貴様のような者が……栄えている限り……」


読経が強くなる。


光が怨霊を押し返す。


百鬼達も後退り始めた。


虎徹はその様子を少し離れた場所から見ていた。


白い尾を揺らし、細く笑う。


〈なるほど。坊主共も、少しはやる。〉


怨霊はなおも抵抗する。


だが高僧が護符を空へ放った瞬間。


───バァン!!


眩い光が炸裂した。


「────ッ!!」


怨霊の姿が大きく揺らぐ。


百鬼達が一斉に叫び声を上げた。


そして。


ズル……ズル……


怨霊は後退っていく。


最後まで右大臣を睨みながら。


「覚えて……おけ……」


怨霊の声が掠れる。


「お前が積んだ怨は……必ず……返る……」


その言葉を最後に怨霊の姿は闇へ溶けていった。


百鬼夜行もまた、ゆっくりと一条大路の闇へ消えていく。


やがて。


静寂だけが残った。


だが。


右大臣はその場から動けない。


全身が震えていた。


庭にはまだ、冷たい怨気だけが澱のように残っている。


有季が静かに近付いた。


「ご無事ですか。」


右大臣は答えない。


脂汗を流しながら、百鬼夜行が消えた闇を見つめていた。


その目には。


初めて、自分へ向けられた“本物の怨み”を見た恐怖が宿っていた。

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