第175話 朔の夜への触れ
───陰陽寮
陰陽寮には、陰陽師達が集められていた。
室内には重苦しい空気が漂っている。
「物の怪の気配が、強くなっている──そうおっしゃいましたか、陰陽頭様。」
年嵩の陰陽師が低い声で尋ねた。
「ああ。」
陰陽頭は静かに頷く。
「日に日に、人ならざるモノの気配が強くなっている。しかも、一つや二つではない。かなりの数だ。」
室内がざわついた。
「あと数日もすれば朔の夜*だ。闇に紛れ、悪鬼怨霊が都へ溢れ出る可能性が高い。」
*朔の夜──新月の夜。
若い陰陽師が青ざめた顔で呟く。
「まさか……百鬼夜行……?」
───ぽつり。
その瞬間、室内の空気が一変した。
「百鬼夜行だと……!?」
「急ぎ宮中へも報せねば!」
「都中へ触れを出すべきだ!」
「朔の夜は夜間外出を禁ずるしかあるまい!」
「夜警すら危ういぞ……!」
陰陽師達が口々に騒ぎ立てる中、陰陽頭だけは静かに顎へ手を当てていた。
(……虎徹様は、“羅生門から始まり、一条の大貴族の邸へ向かう”と言っていたな。
だが、あまり具体的に言えば、私が怪しまれる。)
陰陽頭はしばし考え込み、やがて口を開いた。
「どこへ現れるかまでは、まだ断定できぬ。」
陰陽師達が静まり返る。
「だが、朱雀大路を中心に、気配が特に濃くなっている。」
一拍置く。
「朔の夜は、夜間の外出を禁ずる。蔀戸、御簾は閉ざし、決して外を見ぬよう、都中へ触れを出せ。」
陰陽師達は神妙な顔で頷いた。
「はっ。」
「承知いたしました。」
不安げな空気の中、陰陽頭だけが小さく息を吐いた。
(さて……虎徹様。本当に百鬼夜行をなさるおつもりか……。)
───四条邸
「源惟成様がお見えになりました。」
栄の声に、紗世の肩がびくりと跳ねた。
「……お、お通しして。」
(落ち着け、私。普通に。普通に接するのよ……!)
昨夜の出来事を思い出し、紗世は一人で勝手に赤くなる。
“口付けしてくれたら離してあげるぅ〜”
──などと口走った記憶が、未だに紗世を悶絶させていた。
(うわあああああ!!思い出したぁぁぁ!!)
頭を抱えたくなる気持ちを必死に抑えていると、惟成が部屋へ入ってきた。
「失礼する。」
相変わらず落ち着いた声。
紗世は扇で半分顔を隠しながら、平静を装った。
「ど、どうぞ。」
惟成は座るなり、季節の挨拶もそこそこに本題へ入った。
「今日、陰陽寮から触れが出た。」
「触れ?」
「次の朔の夜は、外出禁止。加えて、外を見ることも禁じるそうだ。」
「外を見るのも?」
紗世は目を丸くした。
「最近の無人牛車の怪異のせい?」
「ああ。」
惟成は頷く。
「日に日に、人ならざるモノの気配が増しているらしい。」
そこで声を低くした。
「……百鬼夜行かもしれぬ、とのことだ。」
「百鬼夜行!?」
思わず紗世は声を上げた。
(百鬼夜行って……妖怪とか怨霊の行列みたいなやつだよね?)
現代で見た漫画やアニメの光景が頭をよぎる。
怖い。
だが同時に、好奇心も刺激された。
「ねえ。」
紗世は身を乗り出した。
「百鬼夜行の時って、なんで外を見ちゃダメなの?」
惟成が眉をひそめる。
「遭遇するのは怖いけど、見るくらいなら別に……」
「……お前、気は確かか?」
「ちょっと!人を変人みたいに言わないでよ!」
惟成は深々とため息を吐いた。
「百鬼夜行は、見ると死ぬと言われている。」
「え!?見ただけで!?」
「そう言い伝えられている。」
「でも実際に見て死んだ人いるの?」
(虎徹は“見ただけで死ぬなど迷信だ”と言っていたが……。)
惟成はこめかみを押さえた。
(こいつに“死なない”と教えたら、本当に見かねん。)
「俺は知らん。」
「じゃあ、なんでそんな噂が?」
「……さあな。だが、そう言われるには理由があるのだろう。」
紗世は腕を組み、
「うーーーん……。」
と唸った。
惟成がじろりと見る。
「いいか。」
低い声。
「朔の夜は、蔀戸も御簾も閉めておけ。決して外を見るな。」
「…………はぁ〜い。」
「おい。」
「なによ。」
「今の間は何だ。」
「別に?」
「本当だな?」
「いくら私でも死にたくはないもん。」
「……ならいい。」
惟成はようやく小さく息を吐いた。
その様子を見て、紗世は首を傾げる。
「惟成、疲れてる?」
「……何故だ。」
「なんか今日、いつもより疲れてそう。」
惟成はしばらく無言で紗世を見つめた。
「……な、なに?」
「昨夜は、誰かさんのせいで余計に疲れたからな。」
「────っ!!」
紗世の顔が一気に真っ赤になる。
「……紗世。」
「は、はい……。」
紗世は扇で顔を隠したまま返事をした。
惟成は静かに言う。
「俺以外の男の前で酒は飲むな。」
「……は、はいぃぃ……。」
消え入りそうな声で返事をすると、惟成はふっと視線を逸らした。
「……いや。」
「え?」
「俺の前なら……ほどほどなら構わん。」
「どっちなのよ……。」
───右大臣邸
阿古丸は、蒼白な顔で頭を垂れていた。
「清原様……陰陽寮より、“朔の夜に百鬼夜行の恐れあり”との触れが出されました。」
声がわずかに震えている。
「まさか……我らが起こした怪異が、本物を呼び寄せてしまったのでは……?」
恐る恐る問いかける。
しかし。
清原有季は、眉一つ動かさなかった。
「……本物を呼び寄せたから、何だというのだ?」
「え……?」
阿古丸は思わず顔を上げた。
有季は静かに酒を口へ運ぶ。
「本物が出るのならば、こちらが怪異を仕込む手間が省ける。」
淡々とした声だった。
「むしろ好都合ではないか。」
蝋燭の灯が、有季の目元を妖しく照らす。
「願わくば──左大臣家の姫が、百鬼夜行を目撃してくれれば良いのだがな。」
阿古丸はごくりと唾を飲み込んだ。
「……まあ、実際に見たかどうかなど、大した問題ではない。」
有季の口元がゆっくりと歪む。
「“左大臣家の姫は百鬼夜行を見てしまった”──そう噂を流せば良いだけのこと。」
ぞくり、と阿古丸の背に冷たいものが走った。
「どのような死に方をしようと、“百鬼夜行に呪い殺された”と言えば、都の者共は勝手に怯え、勝手に信じる。」
有季は静かに笑った。
「怪しむ者など、おるまい。」
その目は、まるで人ではない何かのように冷え切っていた。
「左大臣家の姫を亡き者にする。」
静かな声。
だが、その声音には絶対の殺意が滲んでいた。
「毒殺か……事故死か……。」
有季は盃を置く。
──コト。
小さな音が、妙に重く響いた。
「どう始末するのが最も自然か、考えておけ。」
阿古丸は一瞬、言葉を失った。
だがすぐに、深く頭を下げる。
「……はっ。」
阿古丸はそのまま後ずさり、廊下の闇へ溶けるように去っていった。
静まり返った部屋で、有季だけが静かに目を細めていた。




