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第174話 酔っ払い紗世のおねだり

「真砂。代わろう。」


紗世を支えていた真砂が振り返ると、惟成が立っていた。


「惟成様……あっ!」


そう言うや否や、惟成は寝惚けている紗世をひょいと抱き上げた。


「部屋はどこだ?」


「は、はい!こちらです!」


真砂は慌てて先を歩き出す。


紗世は抱き上げられたまま、さらにぐにゃりと惟成へ寄りかかった。


「んんん〜……。」


「紗世。もう部屋に着く。ちゃんと寝ろ。」


「ん〜……。」


紗世は惟成の胸元へ顔を埋めた。


「顔を埋めるのは布団だ。俺ではない。」


呆れたように言う。


「ん〜……惟成の匂いするぅ……。」


そう言って、更にぐりぐりと顔を押し付ける。


「やめろ。ばかたれ。」


惟成の声は冷静だったが、耳がほんのり赤い。


やがて紗世の部屋へ辿り着いた。


「惟成様。こちらへ。」


真砂が寝所の御簾を上げる。


「……まったく。」


惟成は小さく息を吐きながら、紗世を畳へ下ろそうとした。


──その瞬間。


「……うわっ。」


紗世が惟成の胸元をがっちり掴んでいた。


引っ張られた惟成の体勢が崩れ、そのまま紗世へ覆い被さる形になる。


「…………お前。」


惟成は低く呟いた。


しかし紗世は、むにゃむにゃと寝ぼけたまま離さない。


「真砂。」


惟成が呼ぶ。


「紗世の手を剥がしてくれ。」


すると真砂は、一拍置き、


「まあ!私ったら!殿に頼まれていた事があったのでしたわ!」


「は?」


「急ぎませんと!」


「おい、待て。」


「ではごゆっくり!」


「ごゆっくりじゃない!」


真砂はぱたぱたと廊下を逃げて行った。


静かになった部屋に、紗世の寝言だけが響く。


「ん〜……。」


惟成は深々とため息を吐いた。


「おい。」


「んん……。」


「おい。紗世。」


「……。」


「紗世。手を離せ。」


「離すのぉ〜……?」


「離せ。」


「やだぁ〜……。」


「酔っているな。」


「酔っれまひぇん……。」


「酔ってる。」


惟成は再び紗世の手を外そうとした。


しかし、ぎゅううう、と更に強く掴まれる。


「…………。」


「離せ。」


「やぁ〜……。」


「離せ。」


「やだぁ〜……。」


惟成は片手で額を押さえた。


「……どうしたら離す。」


すると紗世は、とろん、とした目で惟成を見上げた。


そして、ぽやぽやした声で言った。


「……口付けしてくれたらぁ、離してあげるぅ〜……。」


──沈黙。


惟成の動きが完全に止まる。


「…………は?」


「ん〜……。」


「今、何と言った。」


「だからぁ〜……。」


紗世は惟成の狩衣をくいくい引っ張った。


「口付けぇ〜……。」


「…………。」


惟成、完全停止。


耳まで真っ赤だった。


しかし紗世は全く気付いていない。


「ほらぁ〜……。」


「お前、自分が何を言っているか分かってるのか。」


「わかってるぅ〜……。」


「分かってない。」


「わかってるもん〜……。」


「分かってない。」


「けちぃ〜……。」


「誰がケチだ。」


「惟成ぃ〜……。」


「…………。」


「ちゅー。」


「言うな。」


「ちゅー。」


「繰り返すな。」


「ちゅー。」


「やめろ。」


惟成は片手で顔を覆った。


(……酔っ払いは質が悪い。)


すると──


すっ……


御簾がわずかに開いた。


「にゃあ。」


白い影が部屋へ入り込む。


虎徹だった。


虎徹は二人の体勢を見るなり、ぴたりと止まる。


そして、


〈…………何をしておる。〉


「見れば分かるだろう。」


惟成は疲れ切った声で返した。


〈いや、分からぬから聞いておる。〉


「酔っ払いに絡まれている。」


〈ほう。〉


虎徹は面白そうに尻尾を揺らした。


「酔っ払いが離さない。」


〈それで?〉


「口付けしたら離すらしい。」


──ぶふっ。


虎徹が吹き出した。


〈はっはっはっは!!なるほど!!これは傑作だ!!〉


「笑うな。」


〈笑うに決まっておろう!!〉


紗世はむにゃむにゃと惟成へ擦り寄る。


「ん〜……惟成ぃ〜……。」


〈好かれておるな。〉


「酔ってるだけだ。」


〈では試してみるか?本当に口付けで離すかどうか。〉


「試すか馬鹿。」


〈へたれ。〉


「うるさい。」


虎徹は喉を鳴らしながら笑った。


〈しかしまあ……。〉


金と青の瞳が細くなる。


〈都一の武芸の天才も形無しだな。〉


「……うるさい。」


〈物の怪より、酔っ払い姫君の方が手強いか?〉


「黙れ。」


〈ほれ、また顔が赤い。〉


「酒だ。」


〈ほう?〉


「酒だ。」


〈そういう事にしておいてやろう。〉


虎徹は喉を鳴らしながら、くくっと笑った。



───翌朝


兼成は部屋の隅で項垂れ、頭を抱えていた。


「あああああ!!源氏の君、頭中将様、陰陽頭様の前で、私はなんという事ををををを!!!!」


昨夜の宴の後。


源氏の君達は、紗世が土産に用意した唐揚げを手に、それぞれ夜明け前には帰って行った。


「殿。皆様、とても楽しかったと満足されてお帰りになりましたよ?」


北の方が慰めるように言う。


「いや!北の方は分かっておらぬ!!源氏の君だぞ!!?都中の憧れの的!!そのようなお方に、あのような醜態を晒してしまうとは……!!」


兼成は頭を抱えたまま、畳へ額を擦りつける。


「惟成殿を追い回して、“斬るううう!!”などと叫んでしまったぁぁぁ……。」


「ですが、本当に無礼となる振る舞いでしたら、惟光様がお止めになったと思いますよ?」


「うっ……。」


「それに、皆様、とても楽しそうでした。」


「そ……そうだろうか……。」


「ええ。」


北の方は優しく微笑み、ぽんぽんと兼成の背を叩いた。


「むしろ、“藤原殿はやはり面白い”と仰っていたくらいで。」


「面白い……。」


兼成は遠い目をした。


「私は芸人ではないのだが……。」


───


そして。


昨夜の出来事に悶絶している者が、もう一人。


「うわああああああああ!!!!!」


紗世だった。


畳の上を、ごろごろと転がる。


「紗世様。はしたのうございますよ?」


真砂が冷静に言った。


「だ、だってぇぇぇ!!」


紗世は顔を真っ赤にしたまま、両手で頭を抱える。


昨夜は酔っていた。


しかし、記憶は、しっかり残っていた。


──惟成に抱き上げられた事。


──惟成の胸へ顔を埋めた事。


──「惟成の匂いするぅ〜」などと言った気がする事。


──そして。


「口付けしてくれたらぁ、離してあげるぅ〜」


と、自分で言ってしまった事。


「ああああああ!!!!!」


再び畳へ突っ伏す。


(いやあああああ!!!

私、何言ってるの!!!?

しかも絶対、抱きついてた!!!

惟成、絶対困ってたぁぁぁ!!!)


思い出す度に羞恥が押し寄せ、足をばたばたさせる。


「ま……真砂お……。」


紗世は涙目で、ちらりと真砂を見た。


「何でございましょう?」


「昨夜……惟成……何か言ってた……?」


「何か、とは?」


「だ、だからっ……その……私に対して……。」


真砂は少し考えるような顔をした。


「いつも通りの惟成様でいらっしゃいましたよ。」


「そっ……そぉ……。」


紗世は少しだけ安堵する。


しかし。


真砂はさらりと言った。


「口付けはしてもらえたのですか?」


「のおおおおおおおおおっっ!!!」


絶叫。


「真砂っ!!!聞いてたの!!?」


「聞いていた、というより……聞こえてしまったのですわ。」


悪気ゼロ。


「しししししてないよっ!!!」


「まあ〜……やっぱり。」


「やっぱりって何!?やっぱりって!!」


「いえ。惟成様、意外と早く御簾の内から出てこられましたので。」


真砂はにこりと微笑む。


「紗世様があのご様子でしたから、口付けなどしたら、そのまま契りを交わされるのでは、と期待しておりましたのに。」


その瞬間。


紗世の顔が一気に真っ赤になった。


「きっ……期待って何!!!?」


「何って……。」


真砂はきょとんとした。


「紗世様も十五ですもの。惟成様とそうなっても、何ら不思議ではありませんわ。」


「そっ……それは、そうかもしれないけどっ……!!」


「次は、“口付けしてくれたら”ではなく、“朝まで一緒にいてくれたら”を条件にしてはいかがです?」


「何言ってるのよぉぉぉおお!!!」


紗世は再び畳をごろごろ転がった。


「そんな事、言えるわけないでしょおおおお!!!」


「本日も夕方には惟成様、来られるそうですよ?」


──ピタッ。


紗世の動きが止まる。


「……え?」


「左兵衛府のお仕事の後、怪異の件でこちらへ寄られるとか。」


数秒の沈黙。


そして。


「いやああああああああああっっ!!!!」


その日。


兼成と紗世、父娘二人の絶叫が、四条邸に響き渡っていた。

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