第173話 虎徹の警告
「とりあえず……あなた様が、良からぬ妖ではないと分かり、安心いたしました。」
陰陽頭は、ふっと安堵の息を漏らした。
「あなた様ほどの上位の妖が本気を出せば、人などひとたまりもありませんからね。」
その言葉に、虎徹の瞳がすうっと冷えた。
「……最近、都で怪異が増えているようだな。」
「噂をご存知で?」
「ああ。」
虎徹は短く答える。
「何か心当たりでも?」
陰陽頭が探るように問うた。
だが虎徹は、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいや。噂になっている怪異に、我らは一切関与しておらぬ。」
そして、低い声で続ける。
「怪異を起こして、我らに何の得があるというのだ?」
陰陽頭は肩を竦めた。
「……やはり、人為的なものですか。」
その瞬間。
虎徹の尻尾が、ゆらりと揺れた。
「くだらぬ。」
空気がひやりと冷える。
「怪異を騙り、人の恐れを煽り、政に利用する……。」
左右異なる瞳が妖しく細められた。
「人間ごときが、我らを都合良く使おうとはな。」
風が吹き抜け、桜の枝がざわりと揺れた。
「──身の程を知れ。」
惟成と陰陽頭は息を呑む。
しかし次の瞬間、虎徹はくくっと喉を鳴らして笑った。
「まあ、良い。そこまで怪異を見たいというなら──見せてやろう。」
惟成の目が細くなる。
「それは、どういう意味だ。」
虎徹はふん、と鼻を鳴らした。
「本物の百鬼夜行、見せてくれようぞ。」
一瞬。
二人の動きが止まった。
だが虎徹は、それを楽しむように尻尾を揺らす。
「案ずるな。
百鬼夜行を見た者は死ぬなど、人が勝手に作った迷信よ。」
月光が白い毛並みを淡く照らす。
「見ただけで死ぬなら、都はとうに滅んでおるわ。」
その声音には、呆れすら混じっていた。
「百鬼夜行とはな、この世は人だけのものではないと、人に思い出させるための行列よ。」
虎徹は静かに空を見上げる。
「百鬼もまた、元は人であった者、人と共に在った物たちだ。」
「……。」
「よほどのことがない限り、人へ害など及ぼさぬ。」
惟成は静かに問いかけた。
「では、なぜ今、百鬼夜行を?」
すると虎徹の瞳が、再び鋭く光る。
「人間どもに知らしめるだ。」
低く、冷たい声だった。
「我らを利用し、人を呪い、怪異を操ろうなど……愚かにも程がある。」
虎徹はゆっくりと二人を見た。
「そんなに物の怪を望むなら、本物を見せてやる。妖の理を、骨の髄まで思い知るが良い。」
惟成と陰陽頭は、無言でその言葉を聞いていた。
だが次の瞬間。
虎徹は、ふと思い出したように言った。
「そうだ。
我の正体、紗世には言うでないぞ?」
惟成が眉をひそめる。
「言わないのですか?」
「言えば、紗世の態度が変わるやもしれぬだろう。」
虎徹は真顔で答えた。
「膝の上に乗せてくれなくなるかもしれぬし、布団の中にも入れてくれなくなる。」
──ピキッ。
惟成の表情がわずかに引き攣った。
その変化を、虎徹は見逃さない。
「……羨ましかろう?」
「別に。」
惟成は即答した。
だが、その声はほんの少しだけ低かった。
「ぶふっ……!」
陰陽頭は、とうとう堪えきれず吹き出した。
「いやぁ……惟成殿、ほんに分かりやすいなぁ。」
「どこがです。」
惟成は無表情のまま返したが、虎徹と陰陽頭は顔を見合わせ、同時に笑った。
惟成がふい、と視線を逸らす。
その先では、廊下で真砂が半分眠っている紗世を懸命に引きずるようにして歩いていた。
「紗世様、あと少しですから……!」
「んん……虎徹ぅ……。」
「虎徹は後で参りますから!」
ぐったりした紗世を見て、惟成は小さく息を吐く。
「……とりあえず、話はここまでで良いですね。」
そう言って、惟成は小走りで邸の方へ戻って行った。
陰陽頭は、その背中を見送りながら肩を揺らす。
「ほんに真面目だねぇ。」
そして改めて、虎徹へ向き直った。
「虎徹様。百鬼夜行は、具体的にどうなさるおつもりで?」
虎徹はゆらり、と尻尾を揺らした。
「次の月のない夜──羅生門から始めようかの。」
左右異なる瞳が、妖しく光る。
「終わりは……一条にある、我らを利用しようとした者の邸としようか。」
陰陽頭の目が細くなった。
「……此度の人為的な怪異、誰が起こしたのか分かっているのですか?」
虎徹は、くくっと喉を鳴らして笑う。
「犬、猫、鳥、牛……獣たちからの話は、自然と我の耳へ入る。」
夜風が白い毛並みを揺らした。
「人の政など知らぬ獣どもの話でも、繋げれば見えてくるものよ。」
「……左様にございますか。」
陰陽頭が静かに頷くと、
虎徹はぴこぴこと耳を動かし、じいっと陰陽頭を見上げた。
「ああ。いろいろな話が聞こえてくるぞ。」
そして、にやりと笑う。
「どこぞの陰陽師が、とある六条の女主人の邸へ、何かと理由をつけて頻繁に通っておる……とかな。」
珍しく、陰陽頭の頬がじわりと赤くなった。
「……そ、そのようなことまで分かるのですか。」
「お主も、惟成のことをあまり言えぬではないか。」
虎徹は面白そうに、陰陽頭の周りをぐるりと回る。
そして、ぴょん、と陰陽頭の肩へ飛び乗った。
「お主ら人間は、本当に分からぬ。」
「何がでございます?」
「好きなら好きと言えば良い。」
虎徹は当然のように言った。
「欲しいなら欲しいと言って手に入れれば良いものを。なぜ、和歌だの香だの、ああも回りくどいことをする?」
陰陽頭は、ふっと苦笑する。
「……なぜ、なのでしょうね。」
少しだけ、遠くを見るような目になった。
「怖いのかもしれません。」
「怖い?何がだ。」
「慕う相手が、自分と同じように慕ってくれているとは限りません。」
陰陽頭は静かな声で続ける。
「自分だけが想っていたのだと知るのが……怖いのでしょう。」
虎徹は、きょとんとした顔をした。
「ならば次へ行けば良いではないか。想いを返してくれぬなら、返してくれる者を探せば良いだけだ。」
「その切り替えが、人には難しいのですよ。」
「そんなものかのう……。」
虎徹は不思議そうに首を傾げた。
そして、ぽつりと言う。
「だが、六条の女主人は、お主と同じ想いのようだぞ。」
「…………え?」
陰陽頭の動きが止まった。
「相手はどう思っておるのか、世間はどうみるのか、と気を揉んでおるところまで、そっくりだ。」
「…………。」
陰陽頭は珍しく絶句した。
虎徹は楽しそうに喉を鳴らす。
「紗世が、女房たちによく言っておる。
命短し、恋せよ乙女──とな。」
そう言って、虎徹はひらりと陰陽頭の肩から飛び降りた。
そのまま、尻尾を揺らしながら邸の中へ戻っていく。
後に残された陰陽頭は、しばらく黙ったまま月を見上げていた。
「……命短し、恋せよ乙女、ですか。」
そして、小さく呟く。
「……乙女ではないのだが。」




