第172話 虎徹
宴の席では、源氏の君、頭中将、惟光、兼成が、すぅすぅと寝息を立てていた。
酒も料理も存分に楽しみ、完全に酔いつぶれてしまったらしい。
御簾の内では、紗世も脇息にもたれ掛かりながら、うとうとと舟を漕いでいた。
静かな夜だった。
その中で、一人だけ、すっと立ち上がる影があった。
陰陽頭だった。
(少し、樋殿を借りるか……。それと……。)
陰陽頭は、ふと庭へ目を向けた。
月明かりの差す庭。
静かなはずなのに、どこか妙な気配がある。
(……気配は、感じるのだがな。)
その時だった。
廊下の向こうから、足音が近付いてきた。
現れたのは惟成だった。
「おや。惟成殿は酔いつぶれていなかったか。」
陰陽頭が面白そうに言う。
「全員が酔いつぶれては、何かあった時に困るでしょう。」
惟成は淡々と答えた。
「ほんと、真面目だねぇ。」
陰陽頭は肩を揺らして笑う。
「今、何をしていたんだい?」
「紗……和泉殿も眠そうにしていたので、真砂に部屋までお連れするよう頼んできました。」
「……ほんっっと、真面目。」
陰陽頭はニヤリと口元を歪める。
「それとも、“和泉殿だから”かな?」
「別に、そういう訳では──」
惟成が言いかけた、その瞬間だった。
白い影が、上から惟成へ飛び掛かった。
しかし、
「……またお前か。」
惟成はひらりと身をかわした。
床へ軽やかに着地した白猫が、ふわりと尻尾を揺らす。
虎徹だった。
「虎徹。」
惟成が呆れたように名を呼ぶ。
その瞬間、陰陽頭の表情が変わった。
「……惟成殿。」
「なんです?」
「今、この猫……虎徹、と言ったか?」
「ええ。」
惟成は虎徹を見下ろした。
「和泉殿の飼い猫です。」
二人の視線を受けながら、虎徹は静かに座っていた。
月明かりを受け、左右で異なる瞳の色が妖しく光る。
金色と、薄い青。
陰陽頭の目が細くなった。
「……この猫に、何か思うところはないかい?」
「……少し。」
惟成は短く答えた。
「あまり普通の猫には見えません。」
すると――
〈ついてこい。〉
声が響いた。
頭の内側へ直接落ちてくるような、不思議な声だった。
惟成が目を見開く。
「……今の声……。」
陰陽頭は、口元をゆっくり吊り上げた。
「なるほど。」
その目には恐怖ではなく、強い興味が宿っていた。
「どうやら虎徹は、飼い主以上に不思議な存在のようだ。」
───
虎徹は、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら歩いていく。
やがて庭の桜の木の陰で立ち止まった。
そこは、植木や柱に遮られ、邸の中からは絶妙に見えない場所だった。
月明かりが白い毛並みに淡く落ちる。
虎徹はゆっくりと振り返った。
「陰陽頭とやら。お前は最初から気付いておったな。」
左右で異なる瞳が、妖しく光る。
金色と、薄い青。
「──ッ!?」
惟成が目を見開いた。
(喋った……!?)
しかし陰陽頭は、そこまで驚いた様子もなく目を細めた。
「ええ。邸へ入った時から、妙な気配を感じておりましたが……あなた様でしたか。」
その言葉遣いに、今度は惟成が陰陽頭を見た。
(陰陽頭様が……敬語?)
虎徹は喉を鳴らすように笑った。
「そうか。早々に我に気付くとは、陰陽の長というのは伊達ではないようだな。」
そして今度は、虎徹が惟成へ視線を向けた。
「惟成は、我を見ても騒がぬな。」
「……これ以上ないほど驚いておりますが?」
惟成は真顔で答える。
虎徹はじっと惟成を見つめ、
「……ほんに、お主は分かりにくいな。」
と呆れたように尻尾を揺らした。
陰陽頭が静かに問いかける。
「あなた様は、一体……妖……なのでしょうか?」
「妖、か。」
虎徹は空を見上げた。
「老いた猫が化ける……という話は聞いたことがあるか?」
「ええ。猫の他、狐や狸なども化けると。」
「我も、その類ではある。……だが、少し違う。」
「違う、とは?」
虎徹の瞳が細くなる。
「我は、既に三百年生きておる。」
「三百年!?」
思わず惟成が声を上げた。
「しかし、生き物の器は百年も持たぬ。猫など長くて二十年ほどよ。」
「……それでは、どうやって。」
「器を変えるのだ。」
「器?」
「この体が朽ちる前に、別の猫へ魂を移す。」
陰陽頭が静かに息を吐く。
「猫という器を渡り歩いている……ということですか。」
「そういうことだ。」
虎徹は前足を舐めながら続けた。
「この白猫の体も、本来なら既に寿命を迎えておった。」
「……そうは見えませんが。」
「今の体は十六歳だ。」
「十六……!?」
惟成が眉をひそめる。
確かに普通の猫なら、かなり老いていてもおかしくない年齢だった。
「今回は妖力で少し若返らせておるのでな。」
虎徹はニヤリと笑った。
「……なぜ、そこまで。」
惟成の問いに、虎徹はふっと月を見上げた。
「紗世のためよ。」
「和泉殿の……?」
「この体はな、紗世の腕の中で息絶えるはずだったのだ。」
惟成と陰陽頭が息を飲む。
「紗世が我を見つけた時には、この体は既に限界だった。」
「……それが、なぜ。」
「紗世が興味深かった。」
虎徹は静かに言った。
「息絶え、穢れとなる我を、あれは離さなかった。」
月風が庭を抜ける。
「自らが穢れるよりも、我が独りで死ぬ方が心が痛む、と言ったのだ。」
惟成も陰陽頭も黙って聞いていた。
「紗世は、穢れや醜聞を恐れぬ。」
虎徹の瞳が細くなる。
「紗世が恐れるのは、醜い人の心よ。」
静かな声だった。
だが、どこか優しかった。
「そんな紗世を、もう少し見ていたいと思った。」
虎徹は小さく目を伏せる。
「この白猫が紗世の腕の中で死ねば、あれは自らの無力を嘆き、深く悲しむだろう。」
そして、
「……それは避けたかった。」
と、小さく呟いた。
「気付けば、無意識に若返りの術を自身へ掛けていたのだ。」
惟成が静かに問う。
「つまり……和泉殿の傍にいるために?」
「そうだ。」
虎徹は即座に答えた。
「あれほど純粋で、穢れのない、美しい魂は滅多におらぬ。」
すると惟成の目が鋭くなる。
「その魂を……どうにかするつもりか?」
空気が張り詰めた。
しかし虎徹は、ふっと笑った。
「魂を喰らう、とでも?」
左右異なる瞳が妖しく光る。
「そのようなことはせぬわ。」
虎徹は静かに言った。
「美しい者の傍は、居心地が良い。ただ、それだけだ。」
そして次の瞬間。
虎徹の瞳が、ぞくりとするほど鋭く細められた。
「……だが。」
低い声が響く。
「紗世を傷付ける者、穢そうとする者がおるなら──」
風が吹き抜けた。
「その喉笛、噛み千切ってくれようぞ。」
惟成と陰陽頭は、ごくりと息を飲んだ。
しかし次の瞬間、虎徹は何事もなかったように尻尾を揺らした。
「まあ、お主らは紗世を護る側のようだからな。安心しろ。」
惟成はじとりと虎徹を見る。
「……あなた、以前から私に噛み付いたり引っ掻いたりしていましたよね。」
「あれは、まだお主がどんな男か分からなかったのでな。」
「さっきも飛び掛かってきましたが。」
「あらゆる時に備えられているか試しただけだ。」
「私情は?」
虎徹は少し間を置き、
「…………ない。」
と言った。
惟成は無言で目を細める。
「そうですか。」
陰陽頭だけが、堪えきれず肩を震わせて笑っていた。




