第171話 揚げ物の衝撃
しばらくすると、源氏の君、惟光、頭中将、惟成が部屋へ通された。
「おお、陰陽頭ではないか。」
源氏の君が穏やかに声を掛ける。
「そなたも宴に参加するのか?」
「ええ。」
陰陽頭はにこりと笑った。
「例の物の怪騒ぎの注意喚起に来ていたのですが、和泉殿が誘ってくださってね。」
「そうかそうか。」
源氏の君は楽しげに頷く。
「そなたも和泉殿の料理の腕は知っておろう。楽しみであろう?」
「ええ。今日予定が空いていたのは、なかなか幸運でした。」
その隣で、惟成がぽつりと言った。
「陰陽寮の方々が探しておられましたよ。」
「うん?」
「怪異の噂のせいで、貴族方から加持祈祷や読経の依頼が殺到しているそうです。“陰陽頭様はどこへ行かれたのだ”と。」
「ははは。」
陰陽頭は笑顔のまま、小声で返した。
「今回は本当に物の怪の仕業かも分からぬのにね。それすら見極められず、慌てて祈祷ばかりしていては、陰陽師など都合よく使われるだけだ。」
惟成は少しだけ呆れた顔をした。
その時だった。
ふわり――。
部屋に香ばしい匂いが流れ込んできた。
「むっ!?」
頭中将が勢いよく顔を上げる。
「なんだこの良い匂いは!?“あげもの”とやらか!?」
くんくんと鼻を鳴らした。
その匂いと共に、紗世と盆を持った女房達が部屋へ入ってくる。
膳が次々と並べられていった。
「まずは、“ナスの揚げ浸し”にございます。」
紗世は料理を指し示した。
「高温の油で揚げたナスを、魚や海藻の出汁に、醤や生姜をすりおろした物などを合わせた汁へ漬け込みました。」
「ほう……。」
さらに二つの料理が並べられる。
「こちらは、“鶏の唐揚げ”です。」
男達の目が一斉に料理へ向いた。
「鶏のもも肉を、生姜、ニンニク、醤、甘酒の上澄みを合わせた汁に漬け込み、米粉をまぶして揚げました。
そしてこちらは、“甘酢ダレを纏わせた鶏胸肉の唐揚げに卵やネギのタレをかけたもの”です。
上に掛けたタレは、えごま油、お酢、卵、塩を混ぜ合わせた物に、刻んだ葱と潰したゆで卵合わせております。」
源氏の君、頭中将、陰陽頭、惟光、惟成、兼成――。
全員の目がきらきらと輝いていた。
「どのお料理も、お酒によく合うと思います。まずはぜひ、お料理から召し上がってください。」
「では、まずはこの“唐揚げ”とやらを。」
源氏の君が箸を伸ばした。
それに続き、皆も唐揚げを口へ運ぶ。
ザクッ。
サクッ。
衣の小気味良い音が部屋に響いた。
もぐ、もぐもぐ……。
次の瞬間。
「ナンダコレワアアアアア!!!」
頭中将が叫びながら立ち上がった。
「うわっ!?」
紗世の肩が跳ねる。
「なんだこの食感は!!?」
源氏の君も目を見開いている。
「むっ!こちらのタレの方もまた違う美味さが……!」
陰陽頭も箸が止まらない。
「唐揚げ、味がしっかり染みている……。ナスも香ばしく、旨味が深い……。」
惟成は相変わらず表情こそ静かだったが、目だけが明らかに輝いていた。
「ええと……お口に合いましたか?」
紗世が恐る恐る尋ねる。
「合うどころではない!!」
兼成が口いっぱいに頬張りながら叫んだ。
「こんなもの、嫌いな者などおらぬだろう!!」
「これは酒だ。」
頭中将が真顔になる。
「絶対に酒が必要だ。」
「ぬ!!?」
男達は口をもぐもぐさせたまま、一斉に酒瓶へ手を伸ばした。
女房達が慌てて盃へ酒を注ぐ。
唐揚げを頬張り、酒を流し込む。
「――っかぁぁぁ!!」
頭中将が勢いよく盃を置いた。
「最高だなこれは!!!」
───
宴はすっかり盛り上がっていた。
酒瓶は既に何本も空き、頭中将は上機嫌、陰陽頭も珍しく頬が赤い。
そして――
兼成は完全に出来上がっていた。
「ううううう……。」
盃を握り締めたまま、何故か泣いている。
「父上、なんで泣いてるの……。」
紗世は呆れ顔だった。
「だってぇぇぇ……姫が立派に育ってぇぇぇ……。」
「さっきまで普通に飲んでたよね?」
「源氏の君や頭中将様や陰陽頭様みたいな高貴なお方達がぁぁぁ……姫の料理を美味い美味いと食べてくださってぇぇぇ……。」
ぽろぽろ泣いている。
「良い父君ではないか。」
源氏の君が苦笑した。
「うむ。こんなに分かりやすく娘を溺愛している父親も珍しい。」
陰陽頭も楽しそうに笑う。
惟光も酒を飲みながら頷いた。
「兼成は昔からこうなのですよ。“姫が可愛い”“姫が賢い”“姫が優しい”と、文を寄越すたびに書いてありましたからな。」
「惟光ううううう!!!」
兼成が涙目で振り向く。
「そ、そんなに言っておったか私はぁぁぁ……。」
「ああ。毎回な。」
惟光は爽やかに頷いた。
「いや、本当に面白いな。藤原殿。」
「うううう……面白くなどありませぬぅぅぅ……。あの姫がこんなに高貴な方々と親しくさせていただいてええええ……」
兼成はぐすぐす泣きながら酒を煽った。
その時だった。
陰陽頭が、ふと思い出したように扇を鳴らした。
「親しいといえば。」
「ん?」
頭中将が顔を向ける。
「惟成殿、私が初めて和泉殿と会った頃には、もう和泉殿を名前で呼んでいたよね?」
──ピシッ。
空気が固まった。
紗世が止まる。
惟成も止まる。
兼成だけが数拍遅れて、
「…………は?」
ゆっくり顔を上げた。
「え?」
紗世の顔が引き攣る。
陰陽頭は楽しそうに続ける。
「いやあ、私は最初、“随分距離が近いなぁ”と思ってね。」
「陰陽頭様。」
惟成が静かな声を出した。
危険信号だった。
だが陰陽頭は止まらない。
「しかも山小屋の件の後など――」
「ちょっ……!」
紗世が慌てる。
「六条邸で、几帳越しとはいえ、二人並んで手を繋いだまま眠っていたと言うし。」
──ガシャアアアン!!!!
兼成が盃を取り落とした。
「な」
震える。
「ななななな並んで手を繋いで寝ていたああああああ!!!???」
「違っ!!」
紗世が真っ赤になる。
「違わないだろう?几帳を挟んで隣だった。」
陰陽頭がしれっと言う。
「陰陽頭様あああ!!!」
紗世絶叫。
頭中将は腹を抱えていた。
「ははははは!!!惟成!!お前そんなことになっていたのか!!」
源氏の君まで扇で口元を隠して肩を震わせている。
惟成は無表情だった。
だが耳だけ赤い。
そして――
兼成の目がカッと見開かれた。
「…………待て。」
低い声だった。
全員が一瞬静まる。
「私は……以前……。」
兼成はゆっくり立ち上がる。
「“姫に触れたら斬る”と……。」
ぶるぶる震える。
「確かに……そう言った……。」
惟成がスッ……と視線を逸らした。
嫌な予感。
次の瞬間。
「もう既に触れていただとおおおおおお!!!???」
兼成、絶叫。
「斬るうううううううう!!!!」
ガタアアアン!!!
勢いよく立ち上がる。
「待っ――父上!!!?」
紗世が止めるより早く、兼成は壁際に立て掛けてあった太刀を掴んだ。
兼成は太刀を握り締めたまま涙目で震えていた。
「うわあああああん!!!惟光うううう!!!」
「はいはい。」
「お前の息子がうちの姫をおおおお!!!」
「まだ何もしていないだろう。」
「これからするかもしれないでしょうがああああ!!!」
「父上!!?」
紗世が真っ赤になる。
すると兼成は勢いよく惟成を指差した。
「惟成いいいい!!!」
「……はい。」
「姫を泣かせたら許さんからなああああ!!!」
「はい。」
「傷付けても許さんからなああああ!!!」
「はい。」
「姫に変な虫が付いたら斬ると思っていたが!!」
兼成は刀を構えた。
「もう既にお前だったとはああああああ!!!」
「違います。」
「何が違うううう!!!」
ダダダダダダ――!!!
兼成、突撃。
惟成、無言で立ち上がる。
「待てえええええ!!!」
「父上やめてえええ!!!」
「藤原殿落ち着け!!」
頭中将は笑い過ぎて机を叩いている。
「ははははは!!!駄目だ!!今日一番面白い!!!」
陰陽頭も膝を叩いて笑う。
「酒が入ると本当に凄いねぇ、藤原殿!」
「惟成いいいいい!!!」
「…………。」
「待てえええええええ!!!!」
ダダダダダダ――!!!
兼成が追い掛ける。
「父上やめてえええ!!!」
頭中将はもう笑い過ぎて動けない。
陰陽頭も肩を震わせていた。
「いやあ、酒が入った藤原殿、想像以上だねぇ……!」
「笑ってる場合ですか!!」
紗世が叫ぶ。
その頃。
惟成は廊下をかなり本気で逃げていた。
無表情のまま。
後ろから兼成の声が響く。
「惟成いいいいい!!!姫に触れたのかああああ!!!」
「不可抗力です。」
「認めたあああああ!!!」
「山中で保護する際に必要でした。」
「説明が具体的いいいい!!!」
ダダダダダダ――!!!
「斬るうううう!!!」
「だから落ち着いてください。」
「落ち着けるかああああ!!!」
源氏の君はその様子を見ながら、静かに酒を口へ運ぶ。
「……賑やかで良い宴だな。」
ぽつりと呟いた。
その隣で頭中将と陰陽頭は机を叩いて爆笑していた。




