第170話 陰陽頭・四条邸来訪
───翌日
六条御息所邸から戻った紗世を見つけるなり、真砂が小走りで駆け寄ってきた。
「紗世様。陰陽頭様がお越しです。」
「え?陰陽頭様?」
紗世は目を瞬かせ――すぐに、はっとした。
「……あ。もしかして、噂の物の怪の件?」
今日、六条御息所邸でも、朱雀大路の“無人牛車”の噂でもちきりだった。
御息所からも、
「五条の辺りから大内裏へ向かったというのなら、四条の邸も近いではないの。しばらくは昼を過ぎたら帰りなさい。夜歩きなど、決してしては駄目よ。」
と、真剣な顔で言われたばかりだった。
「お通ししてる?」
「はい。客間にてお待ちです。」
「分かった。すぐ行く。」
紗世は急いで髪や衣を整えると、御簾の内へ入った。
「遅くなりまして申し訳ありません。」
「いやいや。突然押しかけたのはこちらだからね。」
陰陽頭は穏やかに笑った。
「まずは、遅ればせながら移居のお祝いを申し上げます。」
「ありがとうございます。お久しぶりでございます、陰陽頭様。」
紗世は軽く頭を下げた。
「今日はやはり……噂の件で?」
「ええ。その通りです。」
陰陽頭は扇を軽く閉じた。
「怪異の目撃情報が、この辺りに近かったのでね。注意喚起も兼ねて、見回っていたのだよ。」
「そんな……陰陽頭様自ら?」
「まあ、都の噂が妙な広がり方をしているからね。」
少し肩を竦める。
「実際のところ、噂は本当なのですか?」
「うーん……“噂そのもの”は、だいぶ話が大きくなっているね。」
「と、申しますと?」
「目撃者の商人から聞けたのは、“御者も牛飼い童もおらぬ牛車が、五条辺りから大内裏へ向かって進んでいた”――それだけなのだよ。」
「え?でも、“見た者が高熱を出した”とか……。」
「ただ怖くて、家から出られぬだけのようだよ。」
「“死人が出た”とか……。」
「そのような報告は受けていないなぁ。」
「“死んだ牛が車を引いていた”とか……。」
「牛については、特に妙な話は出ていないね。普通の牛だったのだろう。」
紗世はぽかんとした。
「……じゃあ、ほとんどデマじゃないですか。」
「八、九割はね。」
陰陽頭は苦笑した。
「人は恐怖が混じると、勝手に話を膨らませるものだ。」
「……本当に、物の怪なのでしょうか?」
「それを今、調べている最中だよ。」
陰陽頭は少しだけ真顔になる。
「そもそも、本当に怪異かどうかすら、まだ分かっていないからね。」
「そうなのですか……。」
紗世は少しだけ胸を撫で下ろした。
「今のところ、私は“人によるもの”の可能性の方が高いと見ている。」
「人……?」
「ああ。怪異に見せかけることなど、案外できるものさ。」
その言葉に、紗世は考え込むように俯いた。
すると。
「――そうそう。」
陰陽頭が、ぱちん、と扇を鳴らした。
「噂と言えば、和泉殿のお父上――検非違使尉殿が、たいそう面白い御方だとか。」
紗世の眉がぴくりと動く。
「……どなたから聞いたのです?」
「頭中将様。」
(でしょうね。)
紗世は思わず遠い目になった。
(絶対好きだもんね、こういう話。)
「検非違使尉殿にも挨拶をと思ったのだが、まだ戻られていないのかな?」
「ええ。まだ検非違使庁の方に。」
そこまで言って、紗世はふと思い出したように顔を上げた。
「陰陽頭様、この後ご予定はございますか?」
「私かい?特には無いよ。」
にこにこと機嫌よく答える。
「でしたら――。」
紗世は少し笑った。
「今日は夕刻から、源氏の君と頭中将様、惟光様、それに惟成が来て、小さな宴をする予定なのです。」
「ほう?」
「源氏の君から頂いた食材で、新しい料理を作るんですよ。よろしければ、陰陽頭様もご一緒にいかがですか?」
「え?良いのかい?」
陰陽頭の声がわずかに弾む。
その御簾の向こう側では見えないよう、しっかりと拳が握られていた。
「もちろんです。」
紗世は笑った。
「今日は、私も初めて作る料理なので……うまくいくか少し不安なのですが。」
「和泉殿の料理か!それは実に楽しみだ。」
陰陽頭は上機嫌で頷いた。
(惟成殿から話は聞いていたけれどね。)
内心だけで呟く。
「真砂。」
「はい。」
「陰陽頭様を宴の部屋へご案内して、お茶を。」
「かしこまりました。」
「では陰陽頭様、私は料理の仕上げがありますので、どうぞごゆっくり。」
そう言って紗世は立ち上がる。
慌ただしく去っていく足音を聞きながら、陰陽頭はふっと笑った。
「……さて。」
静かな声で呟く。
「今日は、“料理”以外にも、面白いものが見られそうだねぇ。」
───
兼成が邸へ戻ると、栄から「陰陽頭が来ている」と聞かされた。
「陰陽頭様!!?」
兼成の顔が一瞬で青ざめる。
そして次の瞬間、
「うわああああ!!待たせてはならん!!!」
廊下を全力疾走した。
バタバタバタバタ――!!
その勢いのまま、陰陽頭が通されている部屋へ飛び込む。
「こ、こ、こ、これはこれは陰陽頭様ああああ!!!よ、ようこそお越しくださいましたあああ!!」
勢いよく平伏した。
「お、お初にお目にかかります!!検非違使尉・藤原兼成にございますうううう!!」
陰陽頭は一瞬きょとんとし――次の瞬間、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
(頭中将様から話は聞いていたが……。)
肩が小さく震える。
(最初からこれとは……破壊力が凄いな……。)
「いやいや、そんなに畏まらずとも。」
陰陽頭――安倍在昌は穏やかに笑った。
「突然押しかけたのはこちらだ。私は陰陽頭・安倍在昌と申す。」
「こ、こ、ここここ此度はどのような御用件でえええ……。」
兼成が完全に混乱していると、後ろから紗世と、膳を運ぶ女房達がやって来た。
「父上。」
紗世は呆れ半分で声を掛ける。
「今日は陰陽頭様にも宴に参加していただくの。源氏の君も頭中将様も惟成も、皆お知り合いだから。」
「なっ――何ィ!!?」
兼成が固まった。
するとそこへ、栄が慌てた様子で現れる。
「殿!源氏の君、頭中将様、源惟成様、ご到着にございます!」
「なにいいいいいい!!!もうかああああ!!!???」
兼成はガバッと顔を上げた。
「陰陽頭様!も、申し訳ございませぬ!!しばし失礼いたしますううう!!」
そう言うや否や、再び廊下を全力疾走していく。
バタバタバタバタ――!!
その後ろ姿を見送りながら、陰陽頭はとうとう肩を震わせた。
「……なるほどねぇ。」
「申し訳ございません、陰陽頭様。父が騒がしくて……。」
紗世がため息混じりに言う。
「いやいや。」
陰陽頭は楽しそうに笑った。
「噂通り、実に面白い父君だ。」




