第169話 広がる怪異の噂
───京中・とある寺
薄暗い本堂の中、灯された蝋燭の火がゆらゆらと揺れていた。
向かい合って座る二つの影。
右大臣の懐刀・清原有季と、阿古丸である。
静寂の中、有季が低く口を開いた。
「……まずは、どう動いた?」
「は。」
阿古丸は深く頭を垂れたまま答える。
「夜半、御者も従者も付けぬ牛車を、九条より五条辺りまで歩かせました。」
「目撃者は?」
「三人連れの商人と思われる男らが。」
「……そうか。」
有季は静かに頷いた。
「まずは、都に怪異を広めよ。」
「は。」
「一つや二つでは足りぬ。」
有季の目が蝋燭の光を受け、鈍く光る。
「都中に怪異を起こし、民衆に恐怖を植え付けるのだ。」
「恐怖……。」
「そうだ。」
有季は冷たく言い放った。
「いつ、誰が取り殺されるか分からぬ――その不安こそが肝要。」
阿古丸は無言で頭を下げた。
「そして。」
有季の声がさらに低くなる。
「そんな怪異の続く中で、左大臣家の姫は命を落とす。」
阿古丸の肩がわずかに震えた。
「左大臣家の姫のみが狙いであると悟られるな。」
「……は。」
「悟られれば、呪詛を疑われる。そうなれば、捜査の手がこちらへ及ぶやもしれぬ。」
「慎重に事を運びます。」
「それで良い。」
有季は扇を静かに閉じた。
「よいか。あくまで“人為”ではなく、“怪異”と思わせるのだ。」
「無人牛車も、風の強い夜を選びました。」
阿古丸が顔を上げる。
「牛車の音が目立たぬよう、ゆっくりと歩かせております。夜更けの朱雀大路なら、風音に紛れ音も聞こえづらく、違和感も増しましょう。」
「……ふむ。」
有季は満足げに目を細めた。
「都の者どもは、元より百鬼夜行を恐れておる。少し噂を流してやれば、自ら勝手に怯え始める。」
「しかし……。」
阿古丸がわずかに言い淀む。
「もし、本当に何か“良くないもの”を呼び寄せてしまったなら――」
ピタリ、と空気が止まった。
有季の目が阿古丸を射抜く。
「……怖じ気づいたか?」
「い、いえ……。」
阿古丸は慌てて頭を下げた。
「ただ、都では昔より、怪異を弄ぶ者には災いが返る、と……。」
有季はふん、と鼻を鳴らした。
「物の怪など、人の恐れが生み出した影に過ぎぬ。」
冷えた声。
「恐れるべきは、人だ。」
蝋燭の火が、ふっと揺れた。
「今後も、ぬかるな。」
有季は静かに告げる。
「我らに残された機会は――これが最後なのだからな。」
「……承知しております。」
阿古丸は深々と額を床につけた。
その時。
ゴウ――……
寺の外を、強い風が吹き抜けた。
本堂の蝋燭が大きく揺らめく。
一瞬だけ。
まるで誰かが、本堂の外を横切ったような気がした。
阿古丸は思わず顔を上げる。
「……?」
だが、そこには誰も居ない。
有季は気にも留めず、静かに立ち上がった。
「行け。」
「は……。」
再び頭を下げる阿古丸。
蝋燭の影だけが、怪しく本堂の壁を這っていた。
───京中
都には、既に「無人牛車」の噂が広がり始めていた。
「聞いたか?朱雀大路に物の怪が出たらしいぞ。」
「物の怪?」
「夜更け、無人の牛車が大内裏へ向かって進んでいたそうだ。」
「無人とは、どういうことだ?」
「牛と車だけでな。牛飼い童も御者もおらず、音もなく進んでいたらしい。」
「誰が見たのだ?」
「貴族の邸へ出入りしている商人だと。間違いなく物の怪だった、と震えていたそうだ。」
噂は、人から人へ渡るたび、少しずつ姿を変えていく。
「目撃した者は高熱を出して寝込んでいるらしい。」
「陰陽寮へ駆け込んだが、手に負えぬと追い返されたとか。」
「陰陽師でも敵わぬ怪異なのか……?」
「牛車を引いていた牛も、生気のない痩せ細った姿だったらしいぞ。」
「まさか……牛まで、この世のものでは無いのでは……。」
「昨夜は五条で犬がずっと吠えていた。」
「犬は物の怪を見るというからな……。」
「では次は、人が死ぬのではないか……?」
不安は不安を呼び、恐怖は勝手に膨れ上がっていく。
夜の外出を控える者。
夕暮れ前に店を閉める商人。
陰陽師へ護符を求める貴族。
寺では読経が増え、都にはどこか重苦しい空気が漂い始めていた。
その様子を、阿古丸は都の片隅から眺めていた。
(……噂だけで、これほど人は恐れる。)
口元が、ゆっくり歪む。
(怪異そのものより、人の心の方が余程扱いやすいな……。)
阿古丸は井戸端に集まる下人や雑色たちの中へ、何食わぬ顔で混ざっていった。
そして、周囲を見回しながら、声を潜める。
「おい……これは、つい先ほど聞いた話だがな。」
その場の者たちが一斉に振り返る。
「朱雀大路の怪異を見た者が……死んだらしい。」
「なっ……!」
息を呑む音が広がった。
「ほ、本当か……?」
「やはり百鬼夜行だったのでは……。」
「次は誰が取り殺されるのだ……?」
人々の顔から血の気が引いていく。
阿古丸は、表向きには怯えたような顔を作りながら、その様子を見回した。
だが。
伏せた口元だけが、醜く歪んでいた。
(……そうだ。もっと恐れろ。
怪異は人を殺す――そう信じ込め。
そして、その恐怖が都を覆った時……左大臣家の姫は、“物の怪に取り殺された”ことになる。)
夕暮れの風が、都を吹き抜けた。
どこからともなく、犬の遠吠えが聞こえる。
その音に、道行く人々はびくりと肩を震わせた。




