第168話 無人牛車
───左兵衛府
「無人牛車、だと……?」
惟成は眉をひそめた。
「は。昨夜、都を歩いていた商人が目撃したとのことです。」
武官が神妙な顔で報告する。
「その商人は、“自分は死ぬのではないか”と、たいそう怯えておりまして……早急に調べてほしい、と。」
「なぜ死ぬなどと思う?」
「百鬼夜行を見た者は死ぬ、と申しますゆえ。もし、無人牛車がその類であれば、自分も取り殺されるのではないか、と……。」
「……ふむ。」
惟成は腕を組み、少し考え込む。
「私一人で聞くより、陰陽寮の者も同席した方がよいな。商人には少し待つよう伝えろ。」
「はっ。」
武官が下がる。
惟成はそのまま廊下を渡っていった。
すると──
「やあ、惟成殿。」
後ろから、どこか飄々とした声が飛んできた。
振り返ると、そこには陰陽頭が立っていた。
「陰陽頭様。ご無沙汰しております。」
惟成は軽く一礼する。
「此度は、陰陽寮にお願いがあり参りました。」
「お願い?」
「ええ。調査への協力をお願いしたく。」
惟成は淡々と続けた。
「今、左兵衛府に“無人牛車を見た。百鬼夜行ではないか”と話す商人が来ております。」
「無人牛車? 百鬼夜行?」
陰陽頭の目が細くなる。
「はい。陰陽寮には、そのような報告は上がっておりますか?」
「いや……少なくとも、私は聞いていないな。」
陰陽頭は顎に手を当てた。
「だが、本当ならば穏やかではない。商人の話、私も一緒に聞こう。」
「お願いいたします。」
二人は足早に左兵衛府へ向かった。
────
「無人牛車を見た、と?」
陰陽頭が静かに問う。
「は、はい……確かに見ました。」
商人は青ざめた顔で頷いた。
「いつ、どこで?」
「昨夜、亥の刻ほどにございます。朱雀大路の五条付近にて……。」
「朱雀大路!?」
陰陽頭がわずかに眉を上げる。
「その牛車は、どちらへ向かっていた?」
「北へ……大内裏の方へ向かって、ゆっくり進んでおりました。」
惟成の目が鋭くなった。
「見た時のことを、最初から順を追って話せ。」
「は、はい……。」
商人は唾を飲み込む。
「昨夜、私は三条の貴族様のお邸へ、反物を届けに参っておりました。」
「そのような夜更けに?」
「ええ……。そこの北の方様が、どうしても今夜中に必要だと仰せで……。」
「なるほど。」
「反物を届け終え、供人二人と共に帰路についていたのです。そして五条の辻へ差しかかった時……向こうから、何かが来るのが見えました。」
部屋の空気が静まる。
「目を凝らすと、一台の牛車でございました。」
「……。」
「ですが、おかしなことに……音が、まったくしなかったのです。」
陰陽頭と惟成が視線を交わす。
「夜更けの朱雀大路にございます。あれほど大きな牛車なら、車輪の音も牛の足音も、遠くから聞こえるはず。しかし……何の音もしない。」
商人の声が震え始めた。
「そして更に恐ろしいことに──牛車を引く御者も、牛飼い童も、おりませんでした。」
「……牛だけが、牛車を引いていたということか?」
惟成が問う。
「は、はい……。」
商人は何度も頷く。
「その違和感に気付き、私達は慌てて辻を曲がり、牛車が通り過ぎるのを待ちました。」
「それで?」
「牛車は、そのまま北へ進んでいきました。私達は、“百鬼夜行を見てしまったのではないか”と思い、それ以上は目で追わず、一目散に家へ逃げ帰ったのです。」
商人の手は小刻みに震えていた。
陰陽頭は落ち着いた声で尋ねる。
「供人も二人いたと言ったな。その者達を含め、何か異変は?」
「い、いえ……今のところは何も。ただ、二人とも怯えきってしまい、本日は外へ出ることすら拒んでおります……。」
「……そうか。」
陰陽頭は静かに頷いた。
「報告、ご苦労であった。」
すると商人は、縋るような目を向けた。
「陰陽師様! 武官様! 私は……物の怪に取り殺されたりはしませんよね!? 護衛など、つけていただけませぬか!?」
「今のところ、目撃したのは牛車のみであろう?」
陰陽頭は穏やかに言う。
「そして、お主はこうして生きている。まだ百鬼夜行と決まったわけではない。」
「しかし……!」
「護衛についても、実害が出ておらぬ以上、一介の商人に常時つけるのは難しい。」
惟成も苦い顔をした。
「まずは調査だ。調べねば、何とも言えぬ。」
「……左様でございますか。」
商人は肩を落とし、深々と頭を下げて帰っていった。
────
「陰陽頭様、どう思われます?」
商人が去った後、惟成が口を開く。
「うーん……。」
陰陽頭は腕を組んだ。
「牛すらいないのに牛車だけが進んでいた、なら完全に怪異だろう。だが、牛がいたなら話は別だ。」
「御者がおらずとも、牛だけで進むこと自体はあり得ますからね。」
「とはいえ、夜更けの朱雀大路を、無人同然の牛車が音もなく進む……不自然ではある。」
「つまり、“どちらとも言えぬ”と。」
「そういうことだ。現場を見ねばな。」
惟成は小さく息を吐いた。
(五条か……四条邸に近いな。)
すると。
「……和泉殿の邸、四条だったね?」
陰陽頭がぽつりと言った。
惟成の眉がぴくりと動く。
(……この人、本当に人の心を読んでいるのでは……。)
「ええ、まあ……。」
「心配だよねぇ。五条から北上したって話だし。」
陰陽頭はにやにや笑う。
「関係ありません。警戒のためです。」
「はいはい。」
軽く流された。
「陰陽頭様は、どう見ます?」
「都の結界に乱れはない。他に怪異の報告もない。」
陰陽頭は少し真面目な顔になる。
「だが、“これを皮切りに”という可能性はある。しばらくは五条より北を警戒した方がいいだろう。」
「承知しました。」
「で?」
陰陽頭がまた口元を緩める。
「四条邸には様子見に行くのかい?」
「……元より、明日行く予定です。」
「あ、そうなの? なぜ?」
「和泉殿が、源氏の君より高級食材をいただいたそうで。」
惟成は淡々と答えた。
「それを使って料理を作るとのことです。明日、源氏の君、頭中将様らと共に四条邸を訪ねます。」
その瞬間。
陰陽頭の背後に、見えない雷が落ちたかのようだった。
「え? え? 和泉殿の料理!? 高級食材!?!?」
「“あげもの”を作るとか。」
「なに、その“あげもの”って。」
「我々にも分かりません。大量の油を使う料理らしいです。」
「明日!? 明日行くの!?」
「ええ。“酒にも合うだろうから、きちんと試作をしたい”と、和泉殿が。」
「えぇぇぇぇぇぇ!!?」
陰陽頭は本気で悔しそうな顔をした。
「絶対、美味いやつじゃないか……!」
「人を招く権限は和泉殿にありますので。私は何とも。」
惟成はさらりと言う。
陰陽頭はハッと顔を上げた。
「──よし。」
「?」
「“四条付近に怪異の報告あり。注意喚起のため巡回する”という名目で、明日四条邸へ行こう。」
「……目撃は五条ですが。」
「北へ向かったのだろう? 次は四条かもしれない。」
真顔で言い切る。
「……。」
「うん、これは陰陽寮として見過ごせない案件だ。」
完全に目的が変わっていた。
陰陽頭は上機嫌で陰陽寮へ戻っていく。
惟成はその背を見送りながら、小さくため息をついた。
(……もう、怪異調査より料理が目的になっているではないか。)




