第165話 祭りのあと
───夜・右大臣別邸
ガシャンッ!!!
右大臣が投げつけた盃が、清原有季の頬をかすめ、壁へ激しく叩きつけられた。
鋭い破裂音が、重苦しい奥の間に響く。
「……此度の件で、左大臣家は揺らいだか?」
低く押し殺した声。
しかし、その奥には煮え滾る怒気が滲んでいた。
「……いえ。」
有季は深く頭を垂れたまま答える。
「源氏の君は絶望を抱いたか?」
「……いえ。」
「左大臣家の姫は、流産したか?」
「……いいえ。」
沈黙。
次の瞬間──
「何をしておった!!!」
右大臣の怒声が轟いた。
有季は床へ額を擦りつける。
「申し訳ございません。」
だが、右大臣の怒りは収まらない。
扇を机へ叩きつける。
「此度の祭り、左大臣側を貶めるどころか、あちらの評判を押し上げただけではないか!」
鋭い目が、有季と阿古丸を射抜く。
「騒動が起きても、検非違使尉と左兵衛尉が混乱を抑え、牛車の倒壊を防ぎ──」
右大臣は忌々しげに吐き捨てた。
「挙句、民衆の前で左大臣家の姫を救い、源氏の君は一声で群衆を鎮めた。」
その手が、怒りで震えている。
「今後、検非違使尉と左兵衛尉への信頼は更に厚くなる。失脚など、ますます難しくなったわ。」
冷たい沈黙が落ちる。
「……なぜ失敗した。」
静かな声。
それが、先ほどの怒声よりも恐ろしかった。
有季は顔を伏せたまま答える。
「……は。平が用意した旅芸人、人為的に騒ぎを起こす者たち、阿古丸が流した“二条から三条の警固は薄い”という噂、そして牛車への細工──」
「そこまでは順調でございました。」
「それで?」
「警固配備や人の流し方は変わっておりましたが、民衆が混乱に陥れば無意味……そのはずでした。」
有季は苦々しく続けた。
「実際、牛が暴れ出した後は、逃げ惑う民衆で通りが埋まり、騒ぎは広がりました。」
「そこまで計画通りだったはずだ。」
右大臣の目が細くなる。
「……なぜ崩れた?」
その時。
阿古丸が、額を床につけたまま口を開いた。
「お、お恐れながら申し上げます……!」
声が震えている。
「最初、牛は確かに暴れておりました。旅芸人どもの鳴り物に興奮し、従者も牛飼い童も弾き飛ばされ、誰にも抑えられぬほどに……!」
「だが?」
「……突然、牛が大人しくなったのです。」
右大臣の眉がぴくりと動く。
「興奮した牛が、急に落ち着くだと?」
「はい……。」
阿古丸はごくりと唾を飲み込んだ。
「しかも、ただ落ち着いたのではございません。」
「何?」
「……怯えておりました。」
空気が、わずかに冷える。
「何か、恐ろしいものを見るように……牛が震え、動かなくなったのです。」
「何に怯えた。」
阿古丸は顔を上げぬまま答えた。
「……猫にございます。」
「猫?」
「真っ白な猫でした。」
右大臣と有季の視線が交わる。
「しかし、ただの猫ではございません。」
阿古丸の声がかすかに掠れた。
「左右で目の色が違いました。片方は金、もう片方は薄い青……。」
「……。」
「六条御息所の牛が、その猫を見た途端に怯え、続いて左大臣家の姫の牛車の牛も、同じように震えて動かなくなったのです。」
有季が低く呟く。
「異形……か。」
「旅芸人どもがいくら鳴り物を鳴らしても、牛はもう動きませんでした。」
阿古丸は悔しげに拳を握った。
「故に、牛を使う策を捨て、直接、左大臣家の牛車を破壊しようとしたのですが……」
「検非違使尉と左兵衛尉に阻まれた。」
右大臣が冷たく言い放つ。
「……左様にございます。」
ふん、と鼻を鳴らす。
右大臣はゆっくりと立ち上がった。
「左大臣家の姫の子が、生まれれば厄介になる。」
暗い声。
「男児ならば、なおさらだ。」
その口元が、醜く歪む。
「流せ。」
有季たちが息を呑む。
「子だけを流すのが難しいなら──」
右大臣は、静かに言った。
「左大臣家の姫ごと、消えても構わぬ。」
ぞわり、と空気が凍る。
「呪詛、毒、事故……方法はいくらでもある。」
扇を閉じる音が響いた。
「子が生まれるのは秋であったな。」
右大臣は、有季たちを見下ろした。
「お前たちに残された時間は、秋までだ。」
「……はっ。」
返事をした有季の声は、わずかに震えていた。
───祭りの夜・四条邸
賀茂の祭の騒ぎがようやく収まり、夜も更け始めた頃。
四条邸の一室から、兼成の絶叫が響いていた。
「痛いいいいい!!!!」
「うるさい!!父上、暴れないで!!」
紗世は額に青筋を浮かべながら、兼成の肩へ薬草を塗り込んでいた。
祭りで牛車を支えた際、兼成の右肩から腕にかけて大きな打撲ができていたのだ。
単をずらした肩は、見事な青紫色になっている。
「だから言ったでしょう!?あんな無茶したらこうなるって!」
「だ、だが!あの場は支えねば牛車が倒れておった!!」
「それは分かってる!!でも今は手当してるの!!」
「ぬおおおおっ!!染みるうううう!!!」
「薬だから!!」
兼成は涙目で畳をばんばん叩いた。
その少し離れた場所。
惟成は静かに座っていた。
こちらも肩から背にかけて打撲があるらしいが、表情一つ変えない。
「惟成も見せて。」
「……問題ない。」
「問題あるから呼んだんだけど?」
「動ける。」
「そういう問題じゃない。」
紗世は呆れ顔になった。
「父上より酷い痣になってるかもしれないんだから。」
「検非違使尉様ほど歳ではありませんので。」
「誰が年寄りだ惟成ぃぃぃ!!!」
兼成が即座に反応した。
「まだまだ現役だぞ私は!!!」
「痛い痛いって騒いでたじゃん。」
「痛いものは痛い!!!」
「父上、静かに。」
「はい……。」
紗世に睨まれ、兼成はしゅんとなった。
惟成は思わず視線を逸らす。
(このお方、本当に昼間の検非違使尉様か……?)
「ほら、惟成も。」
紗世が薬草を持ったまま近寄る。
「肩、見せて。」
「……。」
惟成がわずかに固まった。
「どうしたの?」
「……いや。」
「早く。」
「……。」
「惟成?」
観念したように、惟成は狩衣を脱ぎ、肩の単をずらした。
すると──
「うわ……。」
紗世が目を見開く。
肩から背にかけて、かなり酷い痣が広がっていた。
兼成まで目を剥く。
「おお……。」
「これは……痛かったんじゃない?」
「大したことでは。」
「いや絶対痛いでしょ。」
「慣れてる。」
「慣れないで。」
紗世は呆れながら薬を塗り始めた。
その瞬間。
ピクリ。
惟成の肩がわずかに跳ねた。
「ほら!痛いんじゃん!」
「……薬が冷たいだけだ。」
「強がり。」
「強がっては──」
ぐり。
「っ。」
「今、声出た。」
「……。」
紗世はふふっと笑った。
「惟成って、父上より我慢するよね。」
「男だからな!!」
兼成が胸を張る。
「父上は我慢してない。」
「しておるわ!!」
「さっきから叫びっぱなしじゃん。」
「うっ。」
反論できない。
その時だった。
「にゃあ。」
虎徹がふらりと部屋へ入ってきた。
「あ、虎徹。」
紗世が振り返る。
虎徹はそのまま惟成の隣へ歩いていき──
ぽす。
前足を惟成の肩へ乗せた。
「……?」
惟成が眉を寄せる。
すると。
じんじんと熱を持っていた肩の痛みが、ふっと軽くなった気がした。
「……。」
虎徹は何事もなかったように毛繕いを始める。
惟成はじっと虎徹を見る。
祭りの日の光景が脳裏を過った。
暴れる牛。
怯える牛。
そして、この猫。
(虎徹………?)
惟成は僅かに目を細めた。
その時。
「姫。」
兼成が急に真顔になった。
「なに?」
「何故、惟成の肩ばかり丁寧に塗っておる。」
「は?」
「父には“はい次!”みたいな感じだったぞ。」
「気のせい。」
「気のせいではない!!」
兼成は畳を叩いた。
「父には雑!!惟成には優しい!!」
「だって父上、暴れるんだもん!」
「惟成も暴れればよいのか!?」
「やめてください。」
惟成が即答した。
「ぬぅぅぅ……。」
兼成は悔しそうに唸る。
そして次の瞬間。
ガバッ!!
「やはり姫は渡さん!!!」
「うわっ!!」
兼成が惟成へ飛びかかった。
「検非違使尉様!!肩!!肩が!!」
「知るかああああ!!!」
「だから暴れないでって言ってるでしょおおおおお!!!!」
紗世の絶叫が、夜の四条邸に響き渡った。




