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第164話 牛車の崩壊

遠くから声が飛ぶ。


「もうすぐ来るぞ!」


「光る君はどこだ!?」


「押すな!」


「立ち止まるな!進め!」


周囲がさらにざわめき始めた。


――その瞬間だった。



ドオン!!!


シャアアアアン!!!


 

六条御息所と葵の上の牛車の間で、突如、太鼓と鳴り物が激しく鳴り響いた。


「――っ!?」


従者も牛飼童も、近くの武官たちまでもが振り返る。


牛が驚き、暴れた。


「きゃあああ!!」


牛車が大きく傾く。


紗世と御息所は中で体勢を崩した。


「うわっ!」


「危ない!!」


近くに居た者たちも弾き飛ばされ、人々の悲鳴が上がる。


辺りは一気に騒然となった。


「何をしている!!」


兼成の怒声が響く。


「二条・三条近辺での鳴り物は禁止としたはずだ!!」


人波を割るように兼成が現れた。


すると、旅芸人姿の男が薄笑いを浮かべた。


「旅芸人に鳴り物を禁ずるとは、死ねと言うようなものですぞ?」


さらに太鼓が打ち鳴らされる。


踊り子まで舞い始めた。


「この区画は見世のみ許可だ!芸能は七条より南と定めたはずだ!!移動せよ!!」


武官たちが押さえに向かう。


しかし人混みが邪魔をし、思うように動けない。


牛はなおも暴れ続けていた。


牛車が激しく揺れる。


車輪がギシギシと不穏な音を立てた。


(何これ……!)


紗世は御息所を支えながら、必死に踏ん張る。


(車争いじゃない……でも、別の形で“運命”が来てる……!!)



────



通りの反対側。


惟成が騒動に気付いた。


(鳴り物!?誰だ!!ここは禁止のはず――)


「ここを頼む!」


周囲へ叫ぶ。


「私はあちらへ向かう!!」


だが。


騒ぎに恐慌した人々が押し寄せ、道が塞がれた。


「押すな!」


「危ない!!」


「逃げろ!!」


人波に逆らえない。


「くそっ……!」


進めない。


視界の先には、紗世たちの牛車。


(どうする……!)


その時。



――タッ。



何かが惟成の肩を踏んだ。


「……!?」


見上げる。


そこにいたのは、虎徹だった。


「虎徹!?お前、何故ここに――」



虎徹は大きな荷箱へ飛び乗る。


尻尾で箱をパシパシと叩いた。



惟成は目を細めた。


「……登れ、と?」


虎徹はさらに高い荷へ飛び移る。


「……よし!」


惟成は走った。


ダンッ!!


荷箱へ飛び乗る。


一気に視界が開けた。


騒動の中心。


暴れる牛。


揺れる牛車。


その傍で必死に指揮を執る兼成。


――タッ。


再び、虎徹が肩へ降りる。


「虎徹?」


虎徹は惟成の頬を尻尾で叩くと、次の牛車へ飛び移った。


振り返り、じっと惟成を見る。


「……ついて来い、と言うのか。」


虎徹は無言のまま、さらに先へ進む。


「失礼仕る!!」


惟成は叫びながら、牛車の屋根へ飛び乗った。


「すまぬ!」


「肩を借りるぞ!」


人々の頭上を渡るように進んでいく。


虎徹が導く先へ。


そして――


あっという間に騒動の中心へ辿り着いた。


「検非違使尉殿!!」


「惟成か!!助かった!!」


兼成が叫ぶ。


「まず牛を抑えねばならん!牛車には御息所様と源氏の君の北の方様、それに我が姫が居る!!」


惟成の表情が変わる。


暴れる牛。


倒れた従者。


混乱する人波。


惟成が駆け出そうとした、その瞬間。


虎徹が肩から降りた。


「虎徹!危ないぞ!!」


だが虎徹は、暴れる牛の真正面へ歩み出た。


牛が前足を振り上げる。


踏み潰される――


その瞬間。


ピタリ、と牛が止まった。


虎徹の金色と鮮やかな水色の瞳が、細く鋭く光る。


牛はまるで恐ろしい何かを見たかのように震え始めた。


そして。


ガクン、と前足を折った。


「……っ。」


惟成が息を呑む。


虎徹はそのまま、隣――葵の上の牛車の牛の前へ歩いていく。


すると、そちらの牛もまた震え始め、動きを止めた。


旅芸人たちが慌てて鳴り物を打ち鳴らす。


だが、牛はもう動かない。


「そこの者!旅芸人どもを捕らえろ!!」


兼成の怒声が飛ぶ。


「他は見物人を誘導しろ!もう危険はない!!押し合うな!歩を乱すな!!」


武官たちも一人一人へ声を掛け、人々を落ち着かせ始めた。


しかし。


「くっ……!」


旅芸人たちが突如、葵の上の牛車へ体当たりを始めた。


その中に、阿古丸の姿があった。


(牛が駄目なら……車輪だ。)


阿古丸は細工した箇所を狙って、何度も体当たりする。


メリ……メリメリッ――


嫌な音。


「え……?」


紗世が気付いた。


隣の牛車。


車輪に大きな亀裂が走っている。


紗世は御簾を押し開け、叫んだ。


「父上!!父上ーーっ!!隣の牛車!車輪が壊れる!!」


「何!?」


兼成が振り返る。


次の瞬間。


葵の上の牛車が大きく傾いた。


「きゃああああ!!!」


牛車の中から悲鳴が上がる。


「ぬおおおおおおおおおッ!!」


兼成が阿古丸を突き飛ばした。


そして、崩れ落ちる牛車の下へ滑り込む。


ギリギリで、車体を肩で支えた。


「ち、父上!!?」


「検非違使尉様!!」


惟成も即座に駆け寄る。


兼成の隣へ入り、共に牛車を支えた。


その瞬間。


祭の行列が、目の前へ到着した。


先頭近く――


馬上の源氏の君が、その光景を見た。


壊れた牛車。


必死に支える兼成と惟成。


本来なら。


賀茂の祭の行列を、私情で乱すなど許されない。


だが


「葵っ!!」


源氏の君は馬から飛び降りた。


そして、真っ直ぐ牛車へ駆け寄る。


「何事だ!?葵!無事か!!」


「ぶ……無事……でございます……。私も、若紫も……」


か細い声が返る。


 

源氏の君は牛車へ乗り込み、葵の上を抱き上げた。


「若紫も降りなさい。邸へ戻る。」


「……はい。」


若紫も袿を深く被り、静かに牛車を降りる。


源氏の君は兼成と惟成を見た。


「検非違使尉殿、惟成。よくやってくれた。」


静かだが、強い声だった。


「牛車はもう無人だ。下ろせ。」


兼成と惟成は、牛車の下から静かに身を退いた。


───次の瞬間。


ガタアアアアン!!!


車輪の外れた牛車が、大きな音を立てて地へ崩れ落ちる。


土煙が舞い上がり、その場にいた誰もが息を呑んだ。


一瞬の静寂───。


そして。


「……う、うおおおおおお!!!」


「すごいぞ!!」


「光る君が北の方様をお救いになった!!」


「武官達も見事だ!!」


どっと歓声が湧き起こった。


割れんばかりの喝采は、祭の行列そのものではなく──


懐妊中の葵の上を抱きかかえた源氏の君と、


崩れ落ちる牛車を支え切った兼成と惟成へ向けられていた。


「光る君が北の方様を抱えておられる……!」


「これほど近くでお姿を見られるとは……!」


「武官達も凄かったぞ!あんな大きな牛車を二人で支えていた!」


熱気だった。


先ほどまで騒然としていた空気が、別の熱へと変わっていく。


源氏の君は、葵の上を抱いたまま、静かに民衆へ向き直った。


「皆、驚かせてしまったな。」


柔らかな声だった。


だが、その声は不思議と通り全体へ染み渡っていく。


「祭は、まだ始まったばかりだ。」


歓声が静まっていく。


「諍いや騒ぎは、祭をつまらぬものにする。」


源氏の君は穏やかに微笑んだ。


「どうか皆、落ち着いて──賀茂の祭を楽しんでくれ。」


静まり返る群衆。


やがて、


「……光る君がそう仰るなら。」


「今年の祭は、もう十分に楽しめた気がするわ。」


「落ち着いて見物しよう。」


自然と、人々のざわめきが和らいでいった。


武官達もすかさず声を張る。


「立ち止まるな!」


「押し合うな!」


「行列の道を空けよ!」


紗世は御簾の内から、その光景を呆然と見つめていた。


(……すごい……。)


ただ美しいだけではない。


その場の空気そのものを変えてしまうような力。


(これが……光源氏……。)


ふと、後ろから小さく息を吐く音が聞こえた。


「御息所様、大丈夫でございますか?」


紗世が振り返ると、六条御息所は胸元に手を当てながら、小さく頷いた。


「ええ……。こちらは大事ありません。」


だが、その白い指先はわずかに震えていた。


「本当に……良かったわ。」


御息所は静かに目を伏せる。


「北の方様は懐妊されているのでしょう?もし、あのまま牛車が崩れていたらと思うと……。」


紗世も小さく息を呑んだ。


あのまま倒れていたら──。


考えたくもない。


その時。


「にゃあ。」


御簾の隙間から、白い影がするりと入り込んできた。


「……虎徹!?」


紗世は思わず声を上げた。


真っ白な毛並みの猫は、何事も無かったかのように紗世の膝へ飛び乗る。


「まあ。」


御息所が目を細めた。


「綺麗な猫ね。」


「申し訳ありません、御息所様。私の飼っている猫なのですが……。」


紗世が慌てて虎徹を抱き上げる。


御息所は優しく微笑んだ。


「構いませんよ。こんな人混みでは、この子も怖かったのでしょう。」


虎徹は何食わぬ顔で尻尾を揺らしている。


「牛車の中へ入れてあげなさい。」


「ありがとうございます。ほら、虎徹。良かったね。」


そう言って撫でると、虎徹は満足そうに目を細めた。


その時、再び御簾の外から声がした。


「御息所様、和泉殿。ご無事ですか。」


惟成だった。


「ええ。こちらは問題ありません。」


御息所が答える。


紗世も御簾越しに外を見た。


通りでは、再び行列がゆっくりと動き始めていた。


華やかな装束。


鳴り響く楽の音。


民衆の歓声。


──だが、先ほどの混乱が嘘のように、人の流れには秩序が戻っている。


武官達が人々を導き、人々もまた、その誘導に従っていた。


紗世は、ほっと胸を撫で下ろした。


その一方で──


膝の上の虎徹だけが、細くなった金色の瞳で、人混みの奥をじっと見つめていた。

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