第163話 賀茂の祭
───祭り前夜・都大路
賀茂の祭を明日に控えた都は、昼を過ぎても熱気に満ちていた。
二条から三条へ続く通りには、各地から集まった見世や物売りが並び始め、荷を積んだ牛車や、人足達が絶え間なく行き交っている。
「今年は源氏の君が行列に加わるらしいぞ!」
「左大臣家の北の方様も見物に出るとか!」
「二条から三条が良い場所らしい!」
そんな噂が、都中を飛び交っていた。
露店の準備をする者。
場所取りの相談をする下人達。
芸人達の太鼓や笛の音。
祭り前独特の浮き足立った空気が、都全体を包み込んでいた。
───右大臣別邸・奥の間
「……随分と、人が集まり始めたようだな。」
清原有季が静かに口を開いた。
「は。」
阿古丸が頭を下げる。
「二条から三条へかけて、見物人が集まるという噂はかなり広がっております。」
「見世の配置変更は?」
「辻付近の荷物は禁止されました。しかし祭りが始まれば、客引きや物売りが勝手に荷を寄せる可能性は高いかと。」
「十分だ。」
有季は薄く笑った。
「人は、一人立ち止まれば、後ろも止まる。」
「はい。」
「止まった群衆は押し合う。押し合えば怒号が飛ぶ。怒号は恐怖を生む。」
阿古丸は静かに頷いた。
「芸人達は?」
「配置済みです。笛、太鼓、猿楽、獅子舞……祭りを盛り上げる者達として自然に紛れ込ませております。」
「左大臣家の牛車周辺だったな。」
「は。」
「牛飼い童は?」
「金で動く者がおりました。牛が興奮した際、落ち着かせる動きをわざと遅らせる手筈です。」
「よい。」
有季は満足そうに息を吐いた。
「人の流れを整えた程度で、祭りの混乱を止められると思うなよ。」
その時だった。
外から酔った男達の笑い声が聞こえてくる。
「明日は祭りだぞー!」
「光る君を見に行くんだ!」
「二条が穴場らしいぞ!」
酒に酔った下人達が騒ぎながら通り過ぎていった。
その声を聞きながら、有季は小さく笑った。
「見ろ、阿古丸。」
「……は。」
「人は熱に浮かされると、自分で考えなくなる。」
夜風が几帳を揺らした。
遠くから祭囃子の稽古の音が聞こえている。
都全体が、巨大な熱狂へ向かっていた。
「ほんの少し崩せば、それだけで十分だ。」
有季の目が細まる。
「一度乱れた群衆は、誰にも止められぬ。」
阿古丸は深く頭を下げた。
「祭りが終わるまで、気を抜くな。」
「は。」
───四条邸
その頃、四条邸では、祭り見物へ向けた準備が進んでいた。
女房達が御簾や几帳を整え、牛車へ積む荷を確認している。
「御息所様のお供なのですから、忘れ物があっては大変ですよ。」
真砂が忙しそうに言った。
「分かってるってば。」
紗世は苦笑しながら、見物用の小物を確認していた。
その足元では、虎徹が珍しく落ち着きなく歩き回っている。
「虎徹?」
声をかけると、虎徹は一瞬だけ紗世を見上げた。
だが、すぐに縁側へ向かう。
「どうしたの?」
紗世も後を追って縁側へ出た。
春先の夜風が、ふわりと髪を揺らす。
虎徹は縁側へ座ったまま、じっと都の方角を見ていた。
祭りの行列が通る都大路の方向だ。
「……お祭りの音、気になるの?」
問いかけても返事はない。
ただ、長い尾だけが、ゆっくりと左右に揺れていた。
「変な虎徹。」
紗世は小さく笑った。
抱き上げようと手を伸ばす。
すると虎徹はするりと腕を抜け、庭へ降り立った。
そして月明かりの下で静かに座り込む。
まるで、何かを待つように。
「……?」
紗世は少し不思議に思ったが、すぐに肩をすくめた。
「まあ、猫だもんね。」
遠くから、祭囃子の音が微かに聞こえる。
都は明日の祭りへ向け、眠らぬ夜を迎えようとしていた。
───賀茂の祭・当日
左兵衛府と検非違使の朝は早かった。
日も昇らぬうちから、武官たちは動き始めていた。
前日より運び込まれていた見世の荷、物売りの荷車、芸人たちの道具――それらを整理するため、主要な辻にはすでに警固の者が配置されている。
「辻の五丈以内に、人と荷を入れるな。」
兼成と惟成が徹底させた、その命が繰り返し飛んでいた。
今年は例年と違う。
武官たちの間にも、張り詰めた緊張があった。
────
やがて都は、祭の熱気に包まれていった。
ガラガラと牛車の車輪が鳴る。
雑色の呼び声。
牛飼童の怒鳴り声。
行商人の売り声。
見物の庶民たち。
賀茂の祭へ向かう人々で、大路は次第に埋め尽くされていった。
紗世たち、六条御息所の見物場所は、結局二条近辺となった。
危険の可能性を惟成と兼成は何度も進言した。
それでも――
「六条御息所」という名がある以上、祭で姿を見せぬわけにはいかなかった。
高位貴族にとって祭の見物は、単なる娯楽ではない。
権威と威厳を示す場でもあった。
(平安時代って……ほんと、命より権威や体面が優先なんだよねぇ……。)
御簾越しに通りを見つめながら、紗世は小さく息を吐いた。
もちろん、惟成と兼成が警戒を強めてくれていることは分かっている。
けれど――
どうしても胸に引っかかるものがあった。
───車争い。
『源氏物語』でも、大きな転換点となる事件。
時間が経つほど、人も牛車も増えていく。
その光景すべてが、不吉なものに見えてしまう。
「紗世?」
御息所が優しく声をかけた。
「大丈夫よ。紗世のお父上と、惟成殿が居るのでしょう?」
「……はい。」
紗世は慌てて微笑む。
「今も武官の方たちが、人や牛車を誘導してくださってますし……。」
その時だった。
ガラガラ……
御息所の牛車の横へ、別の牛車がゆっくりと並んできた。
ドクン――
紗世の心臓が大きく跳ねた。
すると
「隣の牛車より、お文にございます。」
従者が声を掛けてきた。
「……文?」
御息所と紗世は顔を見合わせた。
紗世が文を開く。
「あ……。」
目が見開かれる。
「御息所様。お隣、源氏の君の北の方様です。北の方様からのお文です。」
「まあ。」
御息所は少し驚いたように微笑んだ。
「なんと書いてあるの?」
「ええと……今日のお祭りを楽しみにしております、というお歌と……あれ?」
文は二通あった。
「こちらは……私宛です。」
読み進めた瞬間、紗世の表情が明るくなる。
「先日、私が源氏の君にお渡ししたお料理……北の方様、お召し上がりになれたそうです。“とても美味しかった”と。」
「まあ。それは良かったわね。」
御息所は柔らかく笑った。
「では、お返事を書かなければ。」
「はい!」
二人は牛車の中で返歌と返書を書き始めた。
────
紗世が返事を従者へ渡そうと、御簾の隙間から手を伸ばした時だった。
ふと、通りの向こうに父・兼成の姿が見えた。
汗を滲ませながら、武官たちへ次々と指示を飛ばしている。
(父上……。)
その姿を見た瞬間、胸が締め付けられる。
(やっぱり、今年の警固……本当に大変なんだ……。)
そのさらに先。
(あ……惟成。)
人波の中、揉め事の仲裁に入っている惟成の姿が見えた。
人は、なおも増え続けている。
六条御息所と葵の上の関係は、原作とは違う。
場所取りで争うこともない。
だから、車争いの直接の原因は存在しない。
それでも、不安は消えなかった。
時折、庶民が牛車の従者へぶつかる。
牛飼童が怒鳴る。
人波は少しずつ膨らみ続けていた。
ただ――
今年は違う。
武官たちが、
「立ち止まる者」
「歩いて流れる者」
を明確に分けて整理していた。
混乱はある。
それでも、秩序は辛うじて保たれていた。
その時。
一条大路の方角から歓声が上がった。
「行列が始まったようね。」
御息所が静かに言った。




