第162話 満開の夜桜の下の幸福
「待て惟成ぃぃぃ!!」
「待ちません。」
酔った兼成が庭へ飛び出し、それを惟成が真顔で避ける。
宴席から流れるように始まった追いかけっこに、庭の桜がはらはらと揺れた。
「父上ぇぇぇ!!
お客様の前だからああああ!!!」
紗世も慌てて後を追う。
「はははははは!!!
藤原殿、足が速いな!!」
頭中将は涙を流して笑っていた。
「……いや、惟成も速い。」
源氏の君は扇で口元を隠しながら、くっくっと肩を震わせる。
一方、惟光は額を押さえていた。
「すまぬな、兼成……。
息子が妙に和泉殿と距離が近いばかりに……。」
「惟光うううううう!!!
お前が謝るところはそこではないいいい!!!」
兼成は泣きながら叫んだ。
「もっと早く止めろおおおおお!!!」
「無理だ。」
惟光、即答。
その時。
するり。
虎徹が兼成の足元を横切った。
「ぬおっ!?」
酔っていた兼成の足がもつれる。
ぐらり。
「あっ、父上!」
紗世が駆け寄ろうとした、その瞬間――
惟成が反射的に兼成の腕を掴んだ。
「危ない。」
ぐい、と支える。
「…………。」
兼成が固まった。
惟成も「あ。」という顔になった。
数瞬の沈黙。
「……惟成殿。」
兼成が静かに口を開く。
「はい。」
「今、私に触れたな?」
「転倒しそうでしたので。」
「姫には?」
「触れておりません。」
「そうか……。」
兼成は真顔で頷いた。
「ならば良い。」
「基準そこなの!?」
紗世が叫ぶ。
頭中将は再び床へ転がる勢いで笑い始めた。
「っははははは!!!
いいぞ、藤原殿!!」
「笑い事ではありません!!」
紗世は顔を真っ赤にする。
すると源氏の君が、ふと穏やかに庭の桜を見上げた。
「しかし……良い夜だ。」
夜風が吹き、満開の桜がさらさらと揺れる。
灯された篝火の明かりに、薄紅の花びらが舞った。
先ほどまで大騒ぎしていた兼成も、少しだけ静かになる。
「……本当に、綺麗ですね。」
紗世も桜を見上げ、小さく笑った。
「うむ。」
源氏の君が頷く。
「こうして穏やかに花を見られる時が、ずっと続けば良いのだがな。」
その言葉に、惟成と兼成の表情が僅かに引き締まった。
祭りの警固。
不自然な配置。
増え続ける人の流れ。
まだ表には出ていない不穏さが、確かに都の底に渦巻いている。
だが今だけは――
風に舞う桜と、笑い声に包まれていた。
その時。
はらり。
紗世の髪に、数枚の花びらが落ちた。
惟成がそっと手を伸ばす。
しかし――
バシィ!!
「痛っ!?」
虎徹の猫パンチが、再び惟成の手を叩いた。
「お前まだ警戒してるのか!?」
虎徹は惟成をじっと睨み、そのまま紗世の足元へ戻っていく。
兼成はそれを見て、うんうんと深く頷いた。
「やはり虎徹は分かっておる。」
「何をですか……。」
「姫を守る者同士、心が通じ合っておるのだ。」
「絶対違います。」
惟成は即座に返した。
「ふふっ……。」
紗世はとうとう堪え切れず、声を上げて笑った。
その笑い声につられるように、源氏の君も、頭中将も、惟光までもが笑みを零す。
夜風が吹き抜ける。
満開の桜が、さらさらと音を立てて揺れた。
庭には花びらが舞い落ち、篝火の明かりの中で淡く光っている。
「しかし、本当に見事な桜だな。」
源氏の君が空を見上げた。
「四条の邸にこれほど立派な桜があったとは。」
「幼い頃より、この桜だけは毎年楽しみにしておりました。」
兼成が少し照れたように笑う。
「和泉国へ移る前も、姫は毎年、この木の下を走り回っておりましてな。」
「父上っ。」
紗世が慌てる。
「おお、そうなのか?」
頭中将が面白そうに身を乗り出した。
「花が落ちるたび、きゃあきゃあ言いながら追いかけておりましたぞ。」
「言わなくていいから!!」
「しかも転んで泣く。」
「父上ぇぇぇぇ!!!」
紗世が真っ赤になる。
頭中将は腹を抱え、源氏の君も扇で口元を隠しながら肩を震わせていた。
そんな賑やかな空気の中、惟成だけは静かに桜を見上げていた。
その横顔を、紗世がそっと見上げる。
「……惟成?」
「ん?」
「桜、ちゃんと見れた?」
惟成は一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに笑った。
「ああ。」
短い返事だった。
けれど、その声はどこか柔らかかった。
「約束だったからな。」
紗世の頬が、ほんのり桜色に染まる。
その時――
「…………。」
兼成がじぃぃぃっと二人を見ていた。
「父上。」
「…………。」
「父上?」
「惟光。」
兼成が低い声で言った。
「なんだ。」
「やはり私は、もう少し早く帰京すべきだったのかもしれぬ。」
「諦めろ。」
惟光は真顔で返した。
「子は育つ。」
「ぐぅっ……。」
兼成が胸を押さえる。
「父上、そこまで落ち込まなくても……。」
紗世が苦笑する。
兼成はそんな娘を見つめ――ふっと目を細めた。
「……いや。」
ぽつり、と呟く。
「姫がこうして笑っておるなら、それで良い。」
その言葉に、紗世は目を丸くした。
兼成は照れ隠しのように酒を煽る。
「まあ、惟成殿にはまだ色々言いたいことはあるがな!!」
「まだあるのですか……。」
惟成が小さく息を吐いた。
「当然だ。」
「父上……。」
「だが、今日のところは許してやろう!」
兼成は豪快に笑った。
その笑い声に、皆もまた笑う。
春の夜。
満開の桜。
笑い声。
そして、穏やかな灯火。
祭りを前にした都には不穏な影が差し始めていた。
けれど、この夜だけは――
誰もが、ただ桜を見上げていた。




