第159話 桜の下、父の暴走
───四条邸
「藤原殿は惟光と同僚だったとか。」
酒でほんのり頬を染めた源氏の君が、穏やかな笑みを浮かべながら兼成へ向いた。
「そなたの噂は聞いておるぞ。実に優秀で、信頼の置ける者だ……とな。」
「い、いいえ……。もったいないお言葉にございます……。」
兼成は恐縮したように頭を下げた。
「藤原殿。」
源氏の君がふと目を細める。
「ちなみに、昔の惟光はどのような感じだった?今とさほど変わらぬのか?」
その視線が、隣に座る惟光へ流れた。
源氏の君の口元は、どこか楽しげに緩んでいる。
兼成は顔を上げ、惟光と惟成を見比べた。
「そう……でございますな。」
少し考えるように間を置く。
「昔の惟光は……今の惟成殿、そのままでございます。」
一瞬、静寂。
次の瞬間──
「あーーーーっはははははは!!」
頭中将が腹を抱えて笑い出した。
「はははは!なるほど、想像が容易いな!」
肩を震わせながら、紗世へ顔を向ける。
「和泉殿。二十年後の夫は、今の惟光だぞ。」
「も、もう!中将様!!」
紗世は一気に顔を赤くした。
その瞬間──
バキョッ。
兼成の手の中で、つまみを摘んでいた箸が折れた。
(……あ。)
惟成は察した。
(頭中将様、“触れてはならぬ所”へ入り始めたな……。)
だが、頭中将は止まらない。
「惟成も、こう見えて姫君人気が高いからな。」
酒を口に運びながら、愉快そうに続ける。
「断れぬ縁談が来る前に、和泉殿とまとまってしまった方が良いのではないか?」
「そそそそそそうでございましょうかね……。」
兼成は盃を持つ手を震わせながら、酒を一気にあおった。
その飲み方が、明らかに普通ではない。
(頭中将様、おやめください……。)
惟成は心の中で静かに祈った。
しかし追撃は続く。
「和泉殿も評判が良いのであろう?」
今度は源氏の君が、悪気なく微笑んだ。
「六条邸に仕える慎み深い女房として名も知られておるし、垣間見をする公達や恋文も多いのではないか?」
「ははは……。」
兼成は乾いた笑みを浮かべた。
「当家の姫には……もったいないことでございます……。」
そう言いながら、また酒を流し込む。
盃を持つ手が、ぶるぶると震えていた。
(これは……。)
(まずいな……。)
惟光、そして惟成親子は同時に察した。
(来るぞ。)
(来るぞ……。)
「藤原殿も、良い姫を持たれたな。」
源氏の君が柔らかく言った、その瞬間──
タァァァン!!!
兼成は盃を机に勢いよく置いた。
一瞬、座が静まり返る。
紗世が「うわぁ……」という顔をした。
惟成はそっと目を伏せた。
(……酒が回ったな。)
惟光は肩を震わせて笑いを堪えている。
兼成はゆらり、と顔を上げた。
――すでに目が潤んでいた。
「源氏の君……。」
「う、うむ?」
「頭中将様……。」
「なんだ?」
兼成は盃を握りしめたまま、震える声で言った。
「私は別に、姫に良縁が来ることを嫌がっておるわけではないのです……。」
「お、おう……。」
頭中将が若干たじろぐ。
兼成はぶわっと涙を溢れさせた。
「ですが!!」
突然声が大きくなる。
「姫はついこの前まで、和泉国で一緒に暮らしておったのですよ!!」
「父上……。」
紗世が顔を覆った。
「朝になれば、“父上、おはようございます”と来て!
夕餉になれば、“父上、今日はこんな事がありました”と話して!!
庭へ出れば花を摘んで見せに来て!!」
兼成は袖で涙を拭った。
「それが都へ戻って来た途端、垣間見だの恋文だの縁談だの……!!」
「藤原殿、落ち着け。」
源氏の君が苦笑する。
「落ち着いておれますか!!」
兼成は机を叩いた。
「しかも六条御息所様の所へ出仕していた一年で、姫がすっかり貴族の姫君らしく成長しておるのです!!」
「それは良いことでは?」
頭中将が笑う。
「良いのです!!良いのですが!!」
兼成はまた涙ぐんだ。
「父としては複雑なのです!!」
紗世はげんなりした顔になった。
「父上、またそれ言ってる……。」
「言う!!」
即答だった。
「和泉国では、姫は家族と静かに暮らしておったのだぞ!?
それが都へ戻れば、公達共が塀の向こうをうろつき始めるし!!」
「うろつくって……。」
惟成が遠い目をした。
「この前など、門の辺りで笛を吹いておる者までおった!!」
「それは求愛ではないか?」
源氏の君が言う。
「だから困るのです!!」
兼成は涙声だった。
「姫は優しく、人を疑わぬから、変な男に騙されたらどうするのですか!!」
「父上、私そこまで子供じゃないよ?」
「子供です!!」
「即答……。」
頭中将が吹き出した。
兼成はぐい、と酒を飲み干した。
そして、ゆっくり惟成へ顔を向ける。
「……惟成殿は、まだ良いのです。」
「……は?」
惟成が固まる。
「惟光の息子ですし、真面目ですし、不誠実な事はせぬでしょう。」
「それは随分な高評価だな。」
惟光が笑った。
「ですが……。」
兼成の目に再び涙が浮かぶ。
「姫と夜桜を見る約束をしたと聞いた時は、父として複雑だったのです……。」
「まだ引きずってたんですか。」
惟成が額を押さえた。
「だって夜ですよ!?
桜ですよ!?
しかも若い男女二人!!」
「父上、その話、もう十回くらい聞いた。」
紗世が呆れた声を出す。
「仕方あるまい!!」
兼成は本気だった。
「桜というものは、なんかこう……雰囲気があるではないか!!」
「なんだその理由は。」
頭中将が腹を抱えて笑った。
惟光も耐えきれず吹き出す。
「ははは!兼成、お前、本当に変わらんな!」
「笑うな惟光!!
お前だって娘を持てば分かる!!」
「いや、私は惟成なら安心だ。」
「安心できるかあああ!!」
兼成の叫びが庭に響き渡った。
その騒がしさに、紗世はとうとう吹き出した。
源氏の君も扇で口元を隠しながら笑っている。
そんな中、惟成は小さくため息を吐いた。
(……この邸、賑やかだな……。)
だが、不思議と嫌ではなかった。
「しかし藤原殿。」
頭中将が酒を口にしながら、楽しげに言った。
「和泉殿ほど愛らしい姫なら、公達達が放っておかぬのも当然ではないか?」
「ぶふっ……!」
兼成が酒を吹きかけた。
「父上!?汚い!!」
紗世が慌てる。
兼成は口元を押さえたまま、ゆっくり頭中将を見た。
「頭中将様……。」
「なんだ?」
「その“当然”という言葉が、父には恐ろしいのです……。」
「また始まったぞ。」
惟光が小声で言った。
惟成は静かに目を閉じた。
(止まらんな……。)
兼成はぐい、と酒を飲む。
「都へ戻ってからというもの、姫が六条邸へ出仕するたび、どこぞの公達が牛車を止めておるのです……。」
「え?」
源氏の君が目を瞬かせた。
「“今の姫はどなたか”
“どこの邸の姫か”
“文を届けたい”
“扇を贈りたい”……。」
兼成はわなわな震えた。
「知らん!!」
机を叩く。
「姫は見世物ではないのですぞ!!」
「父上……声大きい……。」
紗世が顔を覆う。
「この前など、牛車の簾が少し揺れただけで、“今、こちらを見た”とか騒ぎ始めおって……!」
「まあ、男とはそういうものだ。」
頭中将が笑う。
「だから信用ならんのです!!」
兼成、涙声。
「だいたい、姫は少し愛想が良いのです!
相手が挨拶したら、ちゃんと返してしまう!!
笑いかけられたら、笑い返してしまう!!」
「普通では?」
惟成がぽつりと言った。
「普通ではない!!」
兼成が即座に反応した。
「姫が微笑めば、公達共が勘違いするのです!!」
「そんな事で勘違いするのか?」
源氏の君が苦笑する。
「しますとも!!」
兼成は本気だった。
「都の男共を甘く見てはなりませぬ!!
少し目が合っただけで“想いが通じた”と思い込む輩すらおりますぞ!!」
「ははははは!!」
頭中将が腹を抱えて笑った。
「藤原殿、お前、都の男を何だと思っておるのだ!」
「狼です。」
真顔だった。




