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第158話 夜桜の下で

───三月中旬・四条邸


夜の帳が静かに下り始めていた。


庭では、昼間にほころび始めていた桜が、薄闇の中で淡く霞むように浮かび上がっている。


「……咲いてる。」


紗世は御簾を上げ、庭を見つめた。


昼よりも、夜の方が不思議と綺麗に見えた。


春の夜気はまだ少し冷たい。


けれど、その冷たさすら心地良いほど、桜は静かに咲いていた。


「真砂っ。」


「はい?」


「惟成に文出したい。」


真砂はくすり、と笑った。


「やはり、そう仰ると思いました。」


「だって!咲いたら、一緒に見るって約束したもん!」


紗世は急いで硯の前へ座った。


さらさら、と筆を走らせる。


『庭桜

ほころび初むる

今宵かな

約束の春を

忘れ給ふな』


「……よし。」


「可愛らしいお文ですね。」


「へ、変じゃない?」


「大丈夫でございます。」


真砂は笑いながら文を受け取った。


「では、雪丸に届けさせます。」


「お願いっ。」


真砂が部屋を下がった後も、紗世は何度も庭を見た。


咲いていると言っても、まだ三分にも満たない。


それでも、春が来たのだと分かる。


(来てくれるかな……。)


そんな事を考えていた時だった。


庭先で、ジャリ……と小さく砂を踏む音がした。


紗世が顔を上げる。


「え──」


そこには惟成が立っていた。


「……早っ。」


思わず声が漏れる。


「文を受け取ってすぐ来た。」


惟成は呆れたように言った。


「邸ではなく、通りで文を受け取ったからな。」


「えっ、そんな近くに居たの?」


「今日は警固の確認でこの辺りを回っていた。」


惟成は庭の桜を見上げた。


「……咲いたな。」


「うん。」


紗世は嬉しそうに頷く。


「まだ少しだけど。」


「だから良い。」


惟成の声は静かだった。


「満開より、こういう咲き始めの方が好きだ。」


「そうなの?」


「ああ。春が来る、という感じがする。」


紗世は少し目を丸くした。


「惟成って、そういう事言うんだ。」


「どういう意味だ。」


「もっと、“花より警固”みたいな人かと思ってた。」


「失礼な。」


惟成は苦笑した。


その時、


モフ。


「……。」


虎徹が惟成の足へ体当たりしていた。


「虎徹。」


紗世が慌てて抱き上げる。


「今日は噛んじゃダメだからね?」


「……今日は、か。」


「惟成、根に持ってる?」


「当然だ。」


惟成は真顔で答えた。


紗世は思わず吹き出す。


その笑い声に、夜風がふわりと桜を揺らした。


しばらく二人は並んで庭を見ていた。


遠くで春の虫が鳴いている。


静かな夜だった。


「……祭りが終わったら。」


惟成がぽつりと言った。


「え?」


「今度は昼に、ゆっくり出掛けるか。」


紗世は惟成を見た。


惟成は桜を見上げたままだった。


「今は、どうにも落ち着かん。」


「……うん。」


紗世も小さく頷く。


祭りの警固。


不自然な配置。


増え続ける人の流れ。


惟成も兼成も、ずっと張り詰めている。


だからこそ今この時間が、少しだけ特別に思えた。


「でも。」


紗世は微笑む。


「今の夜桜も、私は好き。」


惟成が静かに視線を向けた。


春の夜風が、二人の間をそっと吹き抜けていった。




───三月下旬・四条邸


検非違使尉・藤原兼成は、届いた文を前に固まっていた。


先触れが来たと聞き、紗世が「花見のために惟成を呼ぶ」と言っていたため、てっきり惟成からの文だと思っていた。


しかし、違った。


届いた先触れは、一通ではなかった。


惟成。


そして──


源氏の君。


頭中将。


兼成の手がぷるぷると震える。


「ななななななぜ、光る君が当家へ……!?しかも、頭中将様まで!?」


顔がみるみる青ざめていった。


「ひっ……姫!!姫ぇぇぇぇぇ!!」


叫びながら、紗世の部屋へと駆けていく。


「父上、うるさい。」


紗世は呆れた顔で振り返った。


「お花見の準備してるんだから、あっち行っててよ。」


「それどころではない!!光る君と頭中将様がいらっしゃると、先触れが来たのだぞ!!」


「……あー。」


紗世はぴたりと手を止めた。


「それ、多分……。」


数日前の出来事を思い出す。



───数日前・六条御息所邸


その日、源氏の君と頭中将は、季節の挨拶がてら、一足早く満開を迎えた六条邸の桜を見に訪れていた。


御簾の内では、六条御息所が穏やかな笑みを浮かべている。


かつて源氏の君への想いに心を乱していた原作とは違い、今の御息所は落ち着いた空気をまとっていた。


「そうなのだ。」


源氏の君が少し困ったように笑う。


「北の方の食欲が落ちた……というより、味覚が変わったらしくてな。今まで好んでいた物でも、食べられぬと言うのだ。」


「まあ……。」


御息所は静かに頷いた。


「それはお辛いでしょうね。私も懐妊中は、匂いだけで気分が悪くなることもございました。」


「そうなのだ!」


源氏の君は身を乗り出した。


「腹の子のためにも滋養のある物をと思うのだが、なかなか難しくてな。何か良い物はないか?和泉殿。」


「へ?」


突然話を振られ、紗世は目を瞬かせた。


「わ、私ですか?」


「和泉殿は今まで見たこともないような料理を作るではないか。」


頭中将が面白そうに笑う。


「北の方が食べられそうな物、何かないのか?」


「ええと……懐妊中は人によって食べられる物が違うので……。」


紗世は少し考え込んだ。


「北の方様は、何か食べたいと仰っていた物はありますか?」


「酸味のある物が欲しいと言っていたので、なますを出したのだが……酸っぱすぎると言って、あまり食べられなかった。」


源氏の君が眉を下げる。


「野菜より、肉や魚の方が口に合っているようだ。」


(青魚をさっぱり煮るとか……鶏を焼いて橘を搾るとか……。)


紗世の頭にいくつもの料理が浮かぶ。


「いくつか試してみたい物はあるのですが……材料が……。」


「材料か!?」


源氏の君がぱっと顔を上げた。


「何が必要だ?用意しよう。」


「え、いや、そんな大袈裟な……。」


「構わぬ。北の方が食べられるなら、それに越したことはない。」


その勢いに押され、紗世は必要な材料をいくつか伝えた。


源氏の君は「近いうちに四条邸へ届けさせよう」と笑っていた。


───


(たぶん、それだろうな……。)


紗世は現実へ意識を戻した。


(頭中将様は絶対、面白半分でついて来るやつ。)


少し呆れながらも、兼成へ向き直る。


「どういうご用件かは分かってますから、普通にお迎えしてください。」


「普通に、だと!?」


「せっかくですし、源氏の君達にもお花見を楽しんでいただきましょう。」


紗世はにっこり笑った。


「ひぃっ……姫……!」


兼成は頭を抱えた。


「簡単に言うが、相手は光る君だぞ!?」


「だーいじょうぶですって。」


紗世は兼成の背をぐいぐい押した。


「ほら、早くお迎えに行って。」


「姫ぇぇ……。」


半ば引きずられるようにして、兼成は門へ向かった。


───


門前には、すでに牛車が停まっていた。


柔らかな春の風の中。


源氏の君は、相変わらず人目を奪う美しさで立っている。


隣には、楽しげに周囲を見回している頭中将。


そして、その後ろには、いつも通り無表情の惟成。


その姿を見た瞬間、兼成は妙な安心感を覚えた。


(……惟成がおる……。)


見慣れた無表情が、この時ばかりは非常に頼もしく感じる。


「藤原検非違使尉殿。」


源氏の君が柔らかく微笑んだ。


「突然押しかける形になってしまい、すまぬな。」


「い、いいえ!!当家のような邸に、源氏の君のお足を運ばせるなど、その……恐れ多く……!」


兼成は慌てて深く頭を下げた。


「よいのだ。」


源氏の君は穏やかに言った。


「此度は、こちらが貴家の姫君にお願いがあって参ったのだからな。」


「当家の姫に……でございますか……?」


兼成が困惑していると、源氏の君の後ろから、すっと一人の男が姿を見せた。


「そう構えるな。」


低く落ち着いた声。


兼成の目が見開かれる。


「……っ、惟光!!」


「久しいな。」


惟光は口元を緩めた。


「十二年振りか?」


「そ、そなた……!」


驚く兼成の肩を、頭中将が愉快そうに眺めている。


「検非違使尉殿。」


源氏の君がくすりと笑った。


「今日は堅苦しい話は抜きだ。花でも眺めながら、ゆるりと語ろうではないか。」


春風が吹き抜け、庭の桜がさらさらと揺れた。


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