第156話 兵衛尉と検非違使尉
───二月下旬・左兵衛府
「くそっ……どうなっているんだ、これは……。」
惟成は机に積み上がった書類を見下ろし、思わず額を押さえた。
「なんだ、この申請の数は……!」
机を叩く。
その音に、周囲で書類を確認していた武官たちも顔をしかめた。
「二条から三条付近にかけて、見世や物売りの申請が異様に集中しておりますな……。」
「今年、その辺りは警固が薄いのでしょう?
偶然にしては出来過ぎています。」
「……どう考えても、おかしい。」
惟成は険しい顔で書類を睨んだ。
二条から三条。
まさに、警固の薄さを問題視していた場所だった。
そこへ大量の人と物売りが集まれば、混乱は避けられない。
「ならば、例年以上の申請は却下するしかあるまい。」
低い声が背後から落ちた。
惟成が振り返る。
そこに立っていたのは──紗世の父、兼成だった。
「和泉守……っ、いや……藤原検非違使尉様!」
惟成は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
兼成は苦笑した。
「まだ着任は四月からなのだがな。
今日は挨拶がてら、顔を出しただけだ。」
そう言いながら、机の上の警固配備図と申請書類へ目を落とす。
一枚、また一枚と目を通し、やがて深いため息を吐いた。
「……惟成殿の文にもあったが、これは不自然過ぎるな。」
「はい。」
「しかも、その不自然な場所へ追い討ちをかけるように、この申請数か……。」
兼成の目が細くなる。
「して、その後。
警固配備の責任者は分かったのか?」
「……いいえ。」
惟成は苦い顔で答えた。
「命令は降りてくるのですが、“決まった事は文箱へ入れておけ”としか言われませぬ。」
「責任者不明のまま、か。」
兼成は長く息を吐いた。
「よし。」
そう言うと、兼成は申請書類を机へ置いた。
「ならば、我らが責任を負えるよう動くしかあるまい。」
「え?」
「まず、この申請だ。
例年以上の数は全て却下する。」
周囲の武官たちが顔を見合わせた。
兼成は構わず続ける。
「惟成殿。二条から三条にかけての警固増員は進言したのだろう?」
「はい。しかし、“人員なし”“他所を削る事も不可”との返書が……。」
「無視だ。」
「……は?」
惟成が思わず聞き返した。
兼成は呆れたように眉を寄せた。
「責任者は誰だと聞いても、誰も名乗らぬのであろう?」
「……はい。」
「ならば現場で動く者が責任を負うしかない。」
兼成は警固図を指で叩いた。
「責任だけ押し付けられ、判断を禁じられる道理がどこにある。」
「…………。」
惟成は言葉を失った。
「自分が責任を負う立場なら、自分が責任を取れる形へ動かす。
当然の事だ。」
兼成はニヤリと笑った。
「心配するな。警固再編の件は、私が言い出した事として責を負う。」
「いいえ。」
惟成は即座に返した。
「祭りの警固に関わる以上、私にも責があります。
最初からこの件に携わっていたのは、私なのですから。」
その真っ直ぐな目を見て、兼成はふっと吹き出した。
「……やはり惟光そっくりだな。」
「え?」
「真面目過ぎる所が、特にな。」
兼成は肩を揺らして笑った。
そして、パン、と手を打つ。
「よし!
ならば最初から警固を組み直すぞ!」
「はい!」
周囲の武官たちも一斉に書類を抱え、持ち場へ散っていった。
しかしその直後、
兼成は惟成の肩をがしっと掴んだ。
「……お主。」
「は?」
「姫には触っておらぬな?」
「…………は?」
突然の問いに、惟成の動きが止まる。
兼成の目は本気だった。
「触ったのか?
触っておらんのか?
どちらだ。」
肩を掴む手に、じわりと力が入る。
「……触っておりません。」
「本当か?」
「本当です。」
「“まだ”ではないだろうな?」
「…………。」
惟成は思わず視線を逸らした。
兼成の目が細くなる。
「ほう?」
「……触っておりません。」
「よし。」
兼成は満足そうに頷いた。
「では、姫と庭の桜を見る約束をしたのは本当か?」
「…………本当です。」
「…………。」
兼成は無言になった。
惟成は静かに覚悟した。
(怒るか……。)
だが兼成は真顔のまま言った。
「その花見。」
「……はい。」
「私も居るからな。」
「…………はい。」
「桜の下、男と二人きりになどさせん。」
「……はい。」
「分かればよろしい。」
兼成は満足げに頷くと、
「仕事だ。」
そう言って、惟成の背をばんっ、と叩いた。
───二月下旬・夜、右大臣家別邸
薄暗い廊下を、阿古丸が静かに進んでいた。
奥の一室。
灯された火の向こうに、右大臣家の懐刀──清原有季の姿がある。
「失礼いたします。」
「入れ。」
低い声が返った。
阿古丸は膝をつき、頭を垂れた。
「申し上げます。」
「申せ。」
「二条から三条へ集めていた見世と物売りの申請ですが……。」
有季の指がぴくりと止まる。
「却下され始めております。」
「……何?」
部屋の空気が変わった。
有季は静かに顔を上げる。
「却下だと?」
「はい。例年以上の申請は認めぬ方針に変わったようです。」
「誰が動いた。」
即座だった。
阿古丸は少し視線を伏せる。
「左兵衛府の兵衛尉──源惟成。」
「若い武官か。」
「はい。しかし、どうやら一人ではございませぬ。」
有季は目を細めた。
「続けよ。」
「新任の検非違使尉が、左兵衛府へ顔を出したとの事。」
「……検非違使尉。」
有季は小さく呟いた。
「名は。」
「藤原兼成。」
その瞬間、有季の目がわずかに鋭くなった。
「和泉守から戻った男か。」
「ご存知で?」
「知っておる。」
有季はゆっくりと脇息へ寄り掛かった。
「融通の利かぬ男だ。不正も裏も嫌う。」
そして鼻で笑う。
「最も面倒な類よ。」
阿古丸は静かに続きを述べた。
「二条から三条の警固増員も進めている様子。
露店だけでなく、人の流れそのものを抑えようとしております。」
「……気付いたか。」
有季の声が低くなる。
「恐らく。」
しばし沈黙が落ちた。
外で風が鳴る。
有季は静かに指で机を叩いた。
「惟成、と言ったな。」
「はい。」
「その若造……誰に繋がっておる。」
「源氏の君の随身、惟光の子です。」
有季の口元が僅かに歪んだ。
「なるほど。惟光の鼻の良さを受け継いでいるか。」
「加えて、兼成とは旧知の仲だとか。」
「……厄介だな。」
有季は細く息を吐いた。
「片方だけならまだ良かった。」
若く真面目な武官
現場を知る検非違使尉
その二人が結びついた。
しかも背後には、
惟光
源氏の君
左大臣家
が居る。
有季は静かに目を閉じた。
(思ったより早く、勘付かれたか……。)
阿古丸が低く問う。
「いかが致します。」
有季はゆっくり目を開いた。
「祭りそのものは止められぬ。」
「は。」
「ならば、予定通り進める。」
「しかし、警固が増えれば……」
「だからこそだ。」
有季の目が冷たく細まる。
「人が多ければ多いほど、混乱は大きくなる。」
阿古丸は静かに頷いた。
有季は続ける。
「それに、警固を動かすなら、奴ら自身が責任を負う事になる。」
「……!」
「祭りで何か起これば、“勝手に警固を変えた者”へ責が向く。」
有季の口元に薄い笑みが浮かんだ。
「惟成と兼成。
ちょうど良い“責任役”が出来たではないか。」




