第152話 四条邸の姫君と兵衛尉
───四条邸・南面
夜の帳がゆるやかに下り始めた頃。
四条邸の門前へ、一台の牛車が静かに停まった。
冬の冷たい風が、軒先の簾をかすかに揺らしている。
先に降りた従者が、門を預かる雑色へ声をかけた。
「兵衛尉源惟成様、姫君へご挨拶に参られました。」
ほどなくして門が開き、家司の栄が姿を現す。
「これは源様。ようこそお越しくださいました。」
惟成は端正に一礼した。
「夜分の訪問、失礼いたします。
本日、姫君が四条邸へお戻りになったと伺いましたので、まずはご機嫌伺いに参りました。」
若いながらも落ち着いた物腰だった。
栄は穏やかに頷く。
「お心遣い、恐れ入ります。」
惟成は従者へ静かに目配せをした。
差し出されたのは、小さな香の箱と白梅の枝。
ほころび始めた花が、ほのかに香っている。
「移居のお祝いにございます。
春浅うございますので、せめて香だけでもと思いまして。」
栄は感心したように目を細めた。
「これは見事にございますな。
姫君もお喜びになりましょう。」
邸へ通される間も、惟成は決して無遠慮に辺りを見回したりはしない。
その姿に、控えていた下仕えの女房たちが小声で囁き合う。
「まあ……兵衛尉様なのね。」
「お若いのに、ずいぶん落ち着いておられること。」
「武官というより、公達様みたい。」
そんな声が聞こえても、惟成は気づかぬふりを崩さない。
やがて南面の座へ案内される。
女房が湯を差し出すと、惟成は丁寧に受け取り、静かに礼を述べた。
「お気遣い痛み入ります。」
ほどなくして、御簾の向こうに人の気配がした。
栄が控えめに告げる。
「姫君にございます。」
惟成は居住まいを正した。
「本日は、四条邸へお戻りとの由。
まずは、お祝い申し上げたく参りました。」
御簾の向こうで、紗世が静かに答える。
「ありがとうございます。」
まだ少し緊張した声だった。
惟成はわずかに表情を和らげる。
「長旅でお疲れではございませんか。」
「少しだけ……。でも、四条邸へ戻って来たら、不思議と落ち着きました。」
「それを聞き、安心いたしました。」
穏やかなやり取りの後、惟成はふと声色を改めた。
「それから――。和泉守様が、検非違使尉として都へ戻られたこと、誠におめでとうございます。」
紗世は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ありがとうございます。父も、都へ戻る事が決まってから慌ただしそうで……。」
「検非違使は務めも多うございますから。」
惟成は静かに頷いた。
「賀茂の祭も近づいておりますし、これから更に忙しくなられるでしょう。」
「そうなの?」
「はい。」
「祭の警固もございますので。」
紗世は御簾の向こうで姿勢を正した。
「惟……源様も、祭の警固に?」
「警固役の一人へ加わることとなりました。」
「それは……。」
紗世の声が少し明るくなる。
「兵衛尉になったばかりなのに、すごいことじゃない。」
惟成は少しだけ笑った。
「ありがとうございます。ですが、まだ慣れません。兵衛志の頃とは、任されることも随分違います。」
「でも、ちゃんと昇進したんだもの。」
紗世は嬉しそうに続けた。
「兵衛尉への昇進、おめでとう。」
御簾の向こうからの真っ直ぐな祝いの言葉に、惟成は一瞬静かになった。
「……ありがとうございます。」
短い返答だったが、その声はどこか柔らかかった。
しばらく穏やかな沈黙が流れる。
庭の方で風が梅の枝を揺らした。
その後、惟成がふと静かに言う。
「……本当は。」
紗世が顔を上げる気配がする。
「明日にでも、改めて伺うべきかとも思っておりました。ですが……」
短い間。
「今日中に、お顔を見たかったのです。」
御簾の向こうが、しん……と静まる。
近くで控えていた真砂が、思わず口元を押さえた。
紗世は何も言えない。
顔が熱い。
自分でも分かるほど熱くなっている。
惟成は、それ以上は何も言わなかった。
ただ静かに座したまま、冬の終わりの夜気の中、ほのかに香る梅の匂いだけが、二人の間へ淡く漂っていた。
御簾の内と外に、再びわずかな距離が戻った頃。
静けさの中で、紗世はふと思い出したように身を起こした。
「そうだ。」
惟成が顔を上げる。
「父上から、源様に文を預かっているの。」
「私に?」
惟成の眉がわずかに動いた。
紗世は真砂に目配せをする。
真砂は他の女房や下仕えの者たちを下がらせた。
この場には、真砂と惟成、そして紗世だけ。
真砂は静かに頷き、懐から一通の文を取り出した。
「こちらでございます。」
惟成はそれを受け取り、丁寧に開く。
目を通すのに時間はかからなかった。
読み終えた瞬間、わずかに息を吐く。
「……なるほど。」
その一言に、紗世は首を傾げる。
「何て書いてあったの?」
惟成は文をいったん閉じると、真砂へ目配せし、それを紗世へ渡すよう促した。
真砂がそっと差し出す。
紗世が受け取り、文字を追う。
そこには、短く一行。
『私の不在時
姫に触れたら
斬る』
「……。」
紗世はしばらく黙り込んだあと、顔を上げる。
「……途中、字が変じゃない?」
惟成が小さく頷いた。
「筆が折れたのだろう。」
「折れたって……。」
紗世は思わず額に手を当てた。
「もう……父上……。」
ため息まじりに呟く。
「ごめんね、惟成。」
「何がだ?」
「せっかくちゃんとした挨拶に来てくれたのに……父上の文で全部台無しじゃない。」
惟成は一瞬間を置き、ふっと笑った。
「いや。たとえこの文が無くとも、どうせ同じように崩れただろう。」
「そんなこと……」
紗世が言いかけると、惟成は少しだけ目を細める。
「それに、さっき真砂以外を下げただろう。」
「え?」
紗世が瞬きをする。
惟成は静かに続けた。
「俺達の話を、余計な者に聞かせぬようにした。」
紗世は少しだけ視線を逸らした。
「……だって、せっかく来てくれたのに、固い話だけなんてつまらないじゃない。」
その言葉に、惟成は小さく息を吐く。
「そう言うな。これからは、こうして気軽に訪ねられる。ここから俺の邸も近い。」
紗世がぱっと顔を上げる。
「近いの?」
「二軒隣だ。」
「……二軒隣!?」
紗世は思わず声を上げた。
「じゃあすぐじゃない!牛車いらないじゃん!」
惟成は少し呆れたように目を細める。
「貴族の姫君らしい言い方ではないな。」
「いいの!」
紗世はむっとしながらも、どこか楽しそうだった。
「じゃあ、歩いてすぐ会えるってことだよね?」
「そうなるな。」
「じゃあ御簾いらなくない?」
「いる。」
即答だった。
「なんで!?」
「貴族だからだ。」
紗世は不満そうに唇を尖らせる。
「もう……不便。」
そう言いながら、紗世は御簾に手をかける。
バサッ、と音を立てて少しだけ上げた。
その瞬間。
──モフッ!!
「…………紗世。」
惟成の声が、少しだけ低くなる。
「今、どうなっている?」
御簾の向こうから虎徹が飛び出し、惟成の顔に全身で張り付いていた。
「こっ……虎徹!?」
紗世が慌てて立ち上がる。
「視界が……何も見えん……。
しかも生暖かい……毛のある何かが顔を覆っている……。」
惟成の声がくぐもる。
虎徹は離れない。
むしろ満足そうにしがみついている。
紗世は急いで引き剥がそうとする。
「虎徹!!離れなさい!!」
「いてててて!!」
惟成が思わず声を上げる。
ようやく虎徹がふっと力を抜き、すとんと紗世の膝へ降りた。
しかし、じっと惟成を見たまま動かない。
明らかに牽制している。
惟成もまた、無言で虎徹を見返していた。
小さな火花のような空気が、二人の間に流れる。
紗世はそれに気付かないまま、苦笑した。
「……ごめんね。普段はこんなことしないんだけど。」
惟成は静かに言う。
「……紗世。御簾の内に戻れ。」
「えー?なんで?いいじゃない。ここには真砂しかいないし。」
真砂がにこりと微笑む。
「では、私も外しましょうか?」
「いや、いい。」
惟成は即答した。
額に手を当てる。
「ここに居ろ。」
「だって!」
紗世は惟成を見上げた。
「惟成が来るって聞いて、ちゃんと新しい袿も出して、髪も整えたのに!御簾の内にいたら見えないじゃない。」
「それはそうだが……。」
惟成が言いかけた、その時。
「いでででで!!」
虎徹が惟成の膝に噛み付いた。
「なぜだ!!俺が何をした!!」
「もう!虎徹!!」
紗世が慌てて抱き上げる。
惟成はこめかみを押さえた。
「……紗世。この猫、俺にだけ当たりが強くないか。」
「え?」
紗世は首を傾げる。
「気のせいじゃない?」
その横で虎徹は、しれっと紗世の腕に収まり、勝ち誇るように丸くなった。
惟成は小さく息を吐く。
「……紗世。頼むから、御簾の内に戻れ。」
「それ、さっきも聞いた。」
「今度は本気だ。」
紗世はしぶしぶ立ち上がり、虎徹を抱えたまま御簾の内へ戻る。
「もう……分かったよ。」
そう言いながらも、どこか納得していない顔だった。
御簾が静かに下りる。
その向こうで、虎徹が惟成をじっと見ている。
惟成もまた、静かにその気配を感じ取っていた。




