第150話 騒乱の火種
───右大臣家・東対の奥
正月も末に近い夜。
庭には雪がまだ淡く残り、月の光が白くそれを照らしていた。遣水の流れは細く、凍えるような静けさが屋敷を包んでいる。
炭火の赤だけが、室内にかすかな温もりを落としていた。
右大臣は脇息にもたれ、開かれたままの文へ静かに目を落としている。
向かいには、近臣の清原有季。
几帳の影が二人の間に長く伸びていた。
「左大臣家の姫君のこと、確かなのでございますね。」
右大臣は文を閉じる。
「うむ。」
「懐妊にございます。」
有季は慎重に言葉を選ぶ。
「秋頃には、御子がお生まれになるやもしれませぬ。」
右大臣は答えなかった。
だが、その沈黙がすべてだった。
源氏の君。
帝の寵を受け、才にも姿にも恵まれ、人望すら集める男。
そこへ左大臣家の嫡流の血が重なる。
もし男子が生まれれば――。
「……人は、勝つ側へ集まる。」
右大臣が低く呟いた。
有季は目を伏せる。
「左府の勢いは、いよいよ強まりましょう。」
「強まりすぎる。」
静かな声。
怒気ではない。
むしろ冷えきった現実の声音だった。
「均衡を失った朝廷ほど、脆いものはない。」
風が簾をわずかに鳴らした。
右大臣はゆっくりと庭へ視線を向ける。
雪の白さの向こうに、まだ遠い春を見ているようだった。
「賀茂の祭は、今年も人が集まろうな。」
有季の指先がわずかに止まる。
「ええ。左大臣家の車も、源氏の車も出ましょう。」
「ならば、騒ぎにもなる。」
右大臣は淡々と言った。
「祭とは、そういうものだ。」
群衆。
牛車。
見物人。
貴族同士の意地。
ほんの少し綻べば、行列は容易く乱れる。
まして賀茂の祭ともなれば、一度崩れた秩序は止まらない。
有季は静かに尋ねた。
「……何をお望みですか。」
右大臣はしばし黙っていた。
やがて、炭火へ視線を落としたまま言う。
「左大臣家の姫が、無事に祭を終えねばよい。」
その言葉に感情は無かった。
有季だけが、その意味を理解する。
懐妊中の葵の上。
流産。
あるいは――。
「源氏の君にも、傷となりましょうな。」
「男は、自らではなく、“守れなかったもの”に折れる。」
静寂。
炭のはぜる音だけが響いた。
有季はさらに慎重に口を開く。
「しかし……今年の祭の警固は、左府方が強く推しております。」
「聞いておる。」
「新任の検非違使尉も、その一人にございます。」
右大臣の口元が、ごくわずかに動いた。
「例の和泉守だった男か。」
「はい。有能との評判高く、人望もあるとか。」
「ならば尚よい。」
有季は顔を上げる。
右大臣は静かに続けた。
「有能と持ち上げられた者ほど、一度の失態で容易く折れる。」
その瞬間、有季は理解した。
狙いは一つではない。
葵の上。
源氏の君。
そして――。
祭の警固を任された左府方の武官たち。
賀茂の祭で大混乱が起これば、
* 源氏は妻子を守れなかった男となり
* 左大臣家は不吉を抱え
* 警固役は責を負う
すべてが同時に崩れる。
しかも表向きは、ただの祭礼事故。
「車争いなど、昔より珍しくもない。」
右大臣は穏やかに言った。
「人が多く集まれば、押し合いも起こる。」
有季は深く頭を垂れる。
「……承りました。」
「ただし。」
右大臣の声が低く落ちた。
「我らの名が出るようではならぬ。」
「無論。」
「事故でなくては意味がない。」
有季は静かに頷いた。
その目には、すでに行列の配置、人の流れ、混乱の起こる場所まで浮かび始めていた。
庭の雪へ夜風が吹き抜ける。
春の祭まで、まだ幾月もある。
だがその夜、賀茂の祭の騒乱は、静かに産声を上げていた。
───一月下旬・洛外の別邸
夜半を過ぎた頃だった。
都の外れ、賀茂川沿いに建つ古びた別邸は、人の出入りも少なく、冬の冷気の中に静まり返っている。
風が吹くたび、竹垣がかさりと鳴った。
奥の一室では、炭火の赤だけがぼんやりと闇を照らしている。
上座に座るのは、清原有季。
その前には、平貞成。
さらに少し離れた柱際には、若い使い走りの阿古丸が、緊張した面持ちで控えていた。
有季はしばらく黙ったまま炭火を見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「右府様より、賀茂の祭についてのお考えを承った。」
その声は穏やかだった。
しかし、貞成はその言葉だけで、これが単なる祭礼の相談ではないことを察する。
賀茂の祭。
春の都最大の祭礼。
上賀茂・下鴨両社への奉幣にあたり、貴族から庶民まで大勢が見物へ押し寄せる。
毎年、行列の周囲では揉め事も起きる。
車の場所争い。
押し合い。
牛の暴走。
時には死人まで出る。
有季は炭へ香木を落としながら続けた。
「今年は、例年以上に人が集まるだろう。」
「源氏の君と、左大臣家の姫君が出られるからですか。」
貞成がそう返すと、有季は頷いた。
「それだけではない。」
そう言って、有季は貞成へ一通の文を差し出す。
貞成が目を通す。
そこには、賀茂の祭の警固役について記されていた。
新任の検非違使尉。
そして、源氏の君の随身の息子の兵衛尉。
検非違使尉は中立の立場だが、右大臣のやり方には首を縦に振らない。そして、兵衛尉は源氏の君に縁ある家門。
貞成はゆっくり顔を上げた。
「……警固役を狙うのですか。」
「正確には、“責を負わせる”。」
有季は静かに言った。
「祭で大きな混乱が起これば、誰が責めを受けると思う。」
「警固役です。」
「そうだ。」
有季の声には感情がない。
「特に今年は、左大臣家の姫が懐妊中だ。」
阿古丸が思わず顔を上げた。
葵の上懐妊の話は、宮中では広まりつつある。
有季はその反応を気にも留めず続けた。
「もし祭の最中に騒ぎが起き、姫に何かあれば――。」
貞成が低く呟く。
「検非違使尉は責を問われる。」
「兵衛尉も連座させられるだろう。」
有季は静かに頷いた。
「源氏の君もまた、妻子を守れなかったと噂される。」
部屋に重い沈黙が落ちた。
炭が小さく爆ぜる。
有季は淡々と話を続けた。
「右府様がお望みなのは、一つの死ではない。」
「左大臣方そのものを揺るがすことだ。」
貞成は腕を組み、しばらく考え込む。
「……しかし、あまり露骨なことをすれば、右府様まで疑われます。」
「だからこそ、“事故”にする。」
有季は即座に答えた。
「賀茂の祭では、毎年何かしら揉め事が起こる。牛が暴れることも、車が壊れることも珍しくはない。」
「そこへ、人の流れを少し乱すだけ。」
「そうだ。」
有季は静かに微笑んだ。
「混乱とは、作るものではない。」
「ほんの少し、背を押してやればよい。」
阿古丸はその言葉に、背筋が寒くなるのを感じた。
有季は続ける。
「すでに、祭の日に車舎へ出入りできる者には話を通してある。」
「牛の扱いに慣れた者もいる。」
「行列の流れも調べさせている。」
貞成がゆっくり問う。
「具体的には、何を。」
有季は指先で炭火の脇を軽く叩いた。
「左大臣家の車の周囲を乱す。」
「まず、人を押し込む。」
「牛を興奮させる。」
「車輪に細工をする者も使う。」
阿古丸が思わず息を呑む。
「……車輪を?」
「軸をわずかに傷つけるだけだ。」
有季は平然としていた。
「祭の騒ぎの中なら、壊れたとしても誰も不審には思わぬ。」
貞成の表情がわずかに険しくなる。
「もし死人が出れば。」
「それもまた、祭というものだ。」
静かな声だった。
だからこそ恐ろしい。
有季は貞成を真っ直ぐ見た。
「お前に任せるのは、“騒ぎを広げること”だ。」
「人を紛れ込ませろ。」
「見物人の中に、わざと押し合いを起こす者を混ぜる。」
「悲鳴を上げさせろ。」
「“死人が出た”と叫ばせてもいい。」
貞成は目を細めた。
「混乱の中心を、左大臣家の車の周囲に作るわけですか。」
「そうだ。」
「そうなれば、警固は乱れる。」
「検非違使尉も兵衛尉も、必ず責を負う。」
阿古丸は膝の上で拳を握りしめていた。
有季は今度、彼へ視線を向ける。
「阿古丸。」
「……はい。」
「お前は文を運べ。」
「祭に関わる下働き、雑色、牛飼たちへ。」
「決して名を出すな。」
「誰に頼まれたかも話すな。」
阿古丸は緊張した声で答える。
「もし……捕まったら。」
有季は一瞬も迷わず言った。
「お前は何も知らぬ使い走りだ。」
その言葉に、部屋の空気がさらに冷えた気がした。
有季は静かに立ち上がる。
「春まで、まだ時はある。」
「人を集めろ。」
「祭の道筋を覚えろ。」
「そして、“偶然”が起こる場所を作れ。」
障子の向こうでは、冬の風が低く唸っていた。
まだ一月。
賀茂の祭までは遠い。
だがその夜、都ではまだ誰一人知らぬまま、春の騒乱だけが静かに動き始めていた。




