第149話 藤原兼成の帰京
───和泉守邸
年が明けた──
紗世は十五になった。
和泉守邸への訪問客もようやく落ち着いた頃、和泉守は北の方と紗世、そして傍に仕える女房や使用人たちを一室に集めた。
御簾の内で、紗世は小さく首を傾げる。
(なんだろう……こんな風に皆を集めるなんて……。)
その様子に気付いた母が、柔らかく声をかけた。
「安心なさい。悪い話ではないわ。……紗世にとっては、むしろ良い話のはずよ。」
(???)
ざわめく女房や使用人たち。
やがて、和泉守の声が落ちた。
「皆、聞いてくれ。結論から言おう──私は四月に都へ戻ることとなった。」
ざわり、と空気が揺れた。
「驚くのも無理はない。だが、そもそも私の和泉守としての任期が長すぎたのだ。」
紗世は、そっと母に囁く。
「母上。和泉守の任期って何年なの?」
「通常は四年よ。」
「えっ……私、和泉国で過ごした記憶しかないんだけど……。」
「そうね……紗世が三つの時にこちらへ来たのよ。」
「今年で十五だから……」
指折り数える。
「……十二年!?」
「そう。殿は三期も務めたのよ。」
紗世は思わず、父を見た。
「年末、宮中より急ぎの知らせがあってな。四月から新たな和泉守が赴任するゆえ、私は都へ戻れとのことだ。戻った後は、検非違使尉に任ぜられる予定である。」
静まり返る室内。
「なお、私と北の方、姫付きの女房を除き、そなたらの多くは和泉国で雇った者たちだ。ゆえに四月以降は、新しい和泉守に仕えることとなる。」
その言葉に、場がざわついた。
おずおずと、雪丸が手を挙げる。
「……あの、殿様。」
「どうした、雪丸。」
「私は和泉国で雇われた身ですが……その……都へご一緒することは、叶いませんでしょうか?」
和泉守は目を細めた。
「都へ行きたいのか?」
「行きたい、というより……新しい方に仕えるよりも、今の殿様や北の方様、姫様にお仕えしたく……。」
御簾の内から紗世が声をかける。
「雪丸、家族は?置いていくことになるよ?」
「家族はおりません。両親も兄弟も既に亡くし……独り身にございます。ゆえに、都へお供しても差し支えはございません。」
ふっと、和泉守が笑った。
「そうか。実はな──皆を和泉で雇ったとはいえ、それでも我らと共に都へ来てくれる者がいないか、聞くつもりであったのだ。」
雪丸がはっと顔を上げる。
「では……」
「まず一人は決まりだな。」
和泉守はにやりと笑った。
「本来なら都で新たに人を雇うものだが……長く共に過ごしたゆえか、身の回りは慣れた者に任せたいと思ってな。」
その言葉に、数人が静かに手を挙げた。
身寄りのない者、都に憧れる者、一度外の世界を見てみたいと願う者──
幾人かが、和泉守一家と共に都へ行くこととなった。
和泉守は御簾の内を見やる。
「姫は、もともと正月明けには六条御息所様のもとへ戻る話があったな。……どうする。一足先に都へ入るか、それとも我らと三月下旬に向かうか?」
「御息所様や源氏の君、陰陽頭様からの新年の文に、すぐにでも戻れるよう整えたとありましたので……先に都へ入ろうと思います。」
「そうか。ならば姫は先に都へ入りなさい。」
「はい。」
紗世は頷き、ふと思い出したように顔を上げる。
「父上。都へ戻ったら、邸はどの辺りになるのですか?」
「四条だ。和泉国へ来る前に住んでいた邸だぞ。覚えておらぬか。」
「……四条の邸……覚えておりません……。」
「幼かったからな。まあよい。六条御息所様の邸へも、そこから通える距離だ。」
「あっ……!」
紗世の顔がぱっと明るくなる。
「そっか……うちから通えるんだ!」
「嬉しいか?」
「はい!とても!」
弾んだ声。
和泉守は満足げに頷き──
ふっと、口元を緩めた。
「惟成殿は、この度兵衛尉に昇進したらしいな?」
「はい。」
新年の挨拶の文にそう書いてあったことを思い出す。
「では、惟成殿も経済力が安定し、姫との話も進むか…?六条御息所様の邸よりも、当家の方が……惟成殿も通いやすくなる……対策せねばな。」
「もう!父上!!」
紗世の顔が一気に赤くなる。
室内に、くすりと笑いが広がった。
───宮中の一室
「クソッ!!」
男は、ダンッと拳で机を叩いた。
「検非違使尉に、あの男が就く。」
「あの男……とは?」
「和泉守・藤原兼成だ。」
その場にいた者たちが、わずかに目を伏せる。
「……厄介な男、ですな。」
しばし、重い沈黙が落ちた。
やがて、最奥に座す男が口を開く。
「昨年の政争で、裏金や横領の不正が露見したのは、今の検非違使尉であったな。」
「……はい。その者には報酬を与える代わりに、諸々の事件や訴えを取り上げぬよう、手を回させておりましたが……」
「うむ。」
「昨年末の人事にて、左大臣の意向を受け、この件を理由に罷免が決まりました。」
「……つまり、今後は不都合なことを揉み消すのが難しくなる、ということか。」
「……その通りにございます。」
「ふん。新たに就く者に金を握らせればよいだけのこと。」
しかし、報告した男はわずかに言い淀んだ。
「それが……此度任ぜられるのが、藤原兼成にございます。」
「それがどうした。」
「金や権力で動く者では、ございません。」
「………。」
「十二年前、あの者を和泉守へやったのも……当時兵衛尉であった藤原が、都において邪魔であったゆえ。」
「……邪魔?」
「はい。いかなる事情があろうと、事件や争いの真を徹底して追う男にございます。」
「……場の空気も読まず、か。」
「は。」
「確かに……厄介だな。」
低く、吐き捨てるように言う。
「この十二年、様々な理由を付けて任期を延ばしてまいりましたが……此度は左大臣の意向も強く、帰京と拝任を止めることは叶いませんでした。」
「現帝の御母は右大臣家、弘徽殿女御。勢は、まだこちらにある。」
「しかし……藤原兼成の着任を皮切りに、人事が左大臣側へ傾けば……」
「……いずれ、こちらにも影響が及ぶ、か。」
トン……
男は扇を机に軽く打ち付けた。
「このままでは、面白くない。」
誰も口を挟まない。
静まり返った空気の中、男はゆっくりと笑みを浮かべた。
「……左大臣家。」
その一言に、周囲の空気が張り詰める。
「源氏の君――」
わずかに間を置く。
「いずれ、手を打たねばなるまいな。」
「右大臣様、それは……」
「急ぐことはない。」
ぴたり、と言い切る。
「相手が相手だ。準備は念入りに。こちらの動き、決して悟らせるな。」
「……は。」
低い応答が重なる。
やがて、男たちの口元に、同じような笑みが広がっていった。
重く、冷たい空気が、部屋を満たしていた。




