第148話 彼の邸、彼女の邸
───近衛少将(惟光)邸
「ただいま戻りました。」
惟成は頭を下げた。
「うむ。ご苦労だったな。この数日で、和泉殿と三条の噂もだいぶ広まったようだ。」
「はい。こちらへ戻る途中、難波の船着場でも既にその噂を耳にしました。」
「そうであろうな。源氏の君と頭中将様が、嬉々として噂を回しておられるからな……余程、和泉殿に戻ってきてもらいたいのだろう。」
そう言う惟光自身も、どこか楽しげな表情を浮かべていた。
「その……父上。噂を聞いた者たちは、和泉殿をどのように見ているのでしょうか……。」
「一時的に力を得ただけの女房だの、鬼に魅入られた女に力を授かった女房だの……そうした不名誉な噂になっていないか、ということだな?」
「……はい。」
「案ずるな。その点も、源氏の君と頭中将様がしっかりと庇っておる。」
惟光は落ち着いた声で続けた。
「京の者たちは和泉殿に同情的でな。もし戻って来たなら、過去には触れず、温かく迎えようという流れだ。」
「と、言いますと?」
「源氏の君がな、“和泉殿は京に来た時から不思議な力を授かっているということは御息所様に伝えていたが、三条に負担をかけぬよう、そのあたりは多くを語らなかったのだ。"と話しているのだ。」
「……。」
「もともと飾り髪の技は和泉殿自身の得手であった。そこに不思議な力が重なったことで、話が複雑になってしまった――そういう形で噂を整えておる。」
「そうでしたか……。」
「ああ。だから京では、他人のことを多く語らず胸に秘める、慎み深い女房という評価になっておる。」
惟光はわずかに頷いた。
「そして、飾り髪の技そのものは高く評価されている。戻って来るなら、ぜひまた頼みたいという姫君や女房も多いようだ。」
その話を聞き、惟成は小さく息を吐いた。
「このままなら、年明け早々に和泉殿を迎えても、問題なく受け入れられるだろう。」
(良かったな……紗世。)
惟成の表情がわずかに緩む。
「あ、そうだ。父上。」
「なんだ?」
「和泉守様が、父上によろしくと申しておりました。」
惟光は目を見開き、くくっと笑った。
「そうか……向こうも気付いたか。」
「父上は……和泉殿が和泉守様の姫君だと、気付いておられたのですか?」
「最初は、ただの和泉国出身の女房だろうと思っていたのだがな。」
惟光は軽く肩をすくめた。
「お前から、和泉殿が牛車から飛び降りたと聞いた時に、まさかと思った。」
「え?」
「和泉守は、豪快な男であろう?」
「はい。」
「あの大胆さに、あいつの影が重なってな……出自を調べてみたら、案の定だ。」
くくく、と肩を揺らして笑う。
「和泉守とは酒を飲んだか?」
「はい。」
「相変わらず、泣き上戸だったか?」
「はい。」
「鬱陶しかったか?」
「……少し。」
「だが、嫌いではなかっただろう?」
「はい。和泉守様から聞きましたが……昔、父上と気が合ったとか。」
「そうだな。あいつとは正反対だが、不思議と合った。」
懐かしむように言い、ふと惟成を見る。
「だからな。和泉殿とお前も、合うのだろうと思った。」
一瞬、惟成はきょとんとしたが、すぐに意味を察する。
「いや、その……和泉殿とは……」
「二人の時は、名で呼び合っているのだろう?」
「……はい。」
じわりと頬が熱くなる。
(父上には敵わんな……。)
「あいつの家と縁続きになるのも、悪くない。」
「父上!!」
「はははは。」
楽しげに笑いながら、
「あいつの邸に泊まったのなら、翌朝に後朝の歌だの、三日夜の餠だのと言われたであろう?」
(なぜ分かる……!)
「あいつは思い込みが激しくてな、突っ走る。」
惟光は楽しそうに扇を扇いだ。
だが、ふとその手を止める。
「だがな――」
静かに言った。
「その思い込みを、現実にしてしまうのが、あいつのすごいところだ。」
惟光はにやりと笑い、惟成を見る。
「………っ!」
「年が明ければ、お前も和泉殿も十五だ。いつそうなっても、おかしくはない。」
「……そんな先のことは、人の知るところではありません。」
惟成は視線を外した。
「そうだな。」
惟光はゆっくり頷く。
そして、
「だが、“鬼”の父であれば、分かるやもしれんぞ?」
噂を引き合いに出し、再びにやりと笑った。
───和泉守邸
にゃあ……にゃあ……
「ん?」
紗世がふと顔を上げた。
「ねえ、真砂。猫の鳴き声、聞こえない?」
「猫……でございますか? 私には何も……」
周りの女房たちも顔を見合わせ、首を傾げる。
静かに耳を澄ます。
にゃあ……にゃあ……
「やはり、何も……」
「やっぱり聞こえる!」
紗世は立ち上がり、庭へと降りた。
辺りを見回す。
にゃあ……にゃあ……
「紗世様、やはり何も……」
真砂や女房たちが声をかけるが、
「聞こえるよ! 絶対、いるって!」
紗世は譲らない。
植え込みの陰、池の縁――庭をくまなく見て回り、やがて、縁の下へと身を潜り込ませた。
「紗世様!! おやめください、そんな……!」
真砂たちが止めようとした、その時。
「ほら! やっぱりいた!」
紗世は、やせ細った薄茶色の猫を抱えて、縁の下から這い出てきた。
「え……? 本当に……?
……って、紗世様! そんなに汚れた猫を……誰か、紗世様から猫を……!」
女房たちが慌てて近寄るが、
「いいの! 私が抱いてるから!」
紗世は猫をしっかり抱きしめた。
「この子、震えてる……すごく弱ってる……!
誰か、温石とお湯と手ぬぐい! それから、味付けしてない肉か魚を細かくほぐして持ってきて!」
そのまま紗世は、自分の部屋へと戻る。
女房や使用人たちが、慌ただしく動き始めた。
紗世は、腕の中の猫を見つめる。
あばらが浮き、息は浅く、苦しそうだった。
(この子……かなり弱ってる……どうしよう……どこまでできる……?)
袿で猫を包み、そっと頭を撫でる。
温石で体を温め、餌を与えようとするが――
(ダメだ……食べる力も気力もない……このままじゃ……)
「ねえ……お願い。お水だけでもいいから……舐めるだけでも……」
紗世は、切なそうに声をかけた。
猫は、うっすらと目を開ける。
小さく息をしながら、紗世を見つめていた。
紗世は猫の隣に横になり、その体にそっと手を添える。
息をしているか確かめるように。
「紗世様……!」
真砂が慌てて声を上げた。
「いけません、そのような……!
もし、その猫が……その……息絶えたら……紗世様が穢れてしまいます……!」
「穢れたなら、祓えばいい。清めればいい。」
紗世はきっぱりと言った。
「でも、この子は……もし死んじゃったら……最期まで一人ぼっちじゃない……。」
息を詰めるように続ける。
「そんなの、可哀想だよ……!」
「……!」
その場にいた者たちは、言葉を失った。
「いいよ。みんなは部屋を出てて。
私、この子を一人で看るから。」
「紗世様……」
真砂は迷いながらも、結局その場に残り、紗世のそばに座った。
やがて紗世は、そのまま猫に寄り添いながら、静かに眠りに落ちていった。
⸻
ザリ……ザリ……
手に、ざらついた感触。
(なに……? 舐められてる……?)
ぱちっ、と紗世は目を開けた。
見ると、猫が弱々しくも確かな動きで、紗世の手を舐めていた。
「……っ! お前……少し元気になったの!?」
周囲を見る。
先ほど置いていた魚のほぐし身が消えている。
猫の口元には、その痕がわずかに残っていた。
「ご飯、食べたの!?」
紗世の顔がぱっと明るくなる。
「にゃあ。」
小さいが、はっきりした鳴き声。
「真砂! 真砂!
魚、もっと持ってきて! お水も!早く!」
「え!? は、はい!」
うたた寝していた真砂は、慌てて立ち上がり、部屋を飛び出した。
紗世は猫を撫でながら、その目を覗き込む。
「……すごい。こんな目してたんだね。」
片方は鮮やかな水色、もう片方は金に近い黄色――
「綺麗……。」
猫は、答えるように再び紗世の手を舐めた。
───数日後
「見て、真砂! 虎鉄、白猫だった!」
湯桶の中で洗われている猫――虎鉄。
紗世は、あの猫をそう名付け、邸で飼うことにした。
「本当でございますね……薄茶の猫かと思っておりましたのに……。」
湯はすっかり茶色く濁っている。
「新しいお湯、持ってきて。ぬるま湯でね。」
紗世はそう言いながら、そっと湯をかける。
「姫よ。何も、姫が自ら洗わずともよかろう。他の者に任せればよいではないか。」
背後から声が落ちた。
「父上。」
和泉守が、手元を覗き込んでいた。
「だって虎鉄、他の人だと暴れるんですもの。
ほら、私だと……」
紗世が指し示す。
そこには――ぴしりと大人しく座る虎鉄。
「……ふむ。よく分からん猫だな。」
和泉守は、くすりと笑った。
「まあ、見事な白猫だ。瞳も珍しい。
しっかり面倒を見るのだぞ。」
「はい!」
紗世は嬉しそうに頷いた。
「でもこの子、とても賢いんですよ。
台盤所に入ってはダメって言ったら絶対入らないし、一度ダメと言ったことは二度としません。」
「ほう。」
「ならば姫より賢いな。」
「うん、そう……って父上!!」
和泉守は笑いながら去っていった。
入れ替わるように新しい湯が運ばれてくる。
「よし、虎鉄。これで最後だよ。お利口にしててね。」
「にゃあ。」
「ちゃんと返事するの? 偉いね。」
紗世は微笑みながら、綺麗な湯で虎鉄を丁寧に濯いだ。




