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第146話 小さな約束

───和泉守邸・廊下


朝餉の後。


紗世は、半ば逃げるように御簾の内を出た。


(無理無理無理無理……)


頬がまだ熱い。


父の暴走。


惟成が、普通に受け答えしていたこと。


(なんであんな平然としてるの……。)


廊下の角を曲がったところで、


「……いた。」


柱の陰に、惟成の姿を見つけた。


ちょうど出立の支度を整えているところらしい。


紗世は、一瞬だけ躊躇って――


それでも歩み寄った。


「……惟成。」


「何だ。」


振り向く。


いつも通りの顔。


(ほんと何なのこの人……。)


「その……」


言いづらそうに、視線を逸らす。


「父上が……その……」


「……ああ。」


短く返される。


(分かってるんだ。)


「変なことばっかり言って、ごめん。」


小さく頭を下げた。


「……ほんと、ごめん。」


今度はちゃんと頭を下げる。


しばらく、沈黙。


惟成は、紗世をじっと見ていた。


「……別に。」


ぽつりと言う。


「気にしていない。」


「え?」


思わず顔を上げる。


「……ああいう話は、珍しくもない。」


淡々とした口調。


「都でも、よく聞く。」


「あ、そっか……。」


(源氏の君とか、頭中将とか……)


なんとなく納得してしまう。


でも。


「……でもさ。」


少しだけ、言葉を探す。


「嫌じゃなかった?」


「何がだ。」


「その……勝手に将来の話とかされて……」


言いながら、また恥ずかしくなる。


惟成は、一瞬だけ考えるように視線を外した。


それから――


「……別に。」


同じ言葉。


だが、今度は少し間があった。


「そういうものだろう。」


「え?」


「家と家の話になる以上、避けては通れん。」


淡々としている。


いつもの理屈。


(……やっぱりそういう考えなんだ。)


少しだけ、胸がちくりとする。


「……そっか。」


小さく頷く。


それ以上は聞けない。


空気が、少しだけ落ちる。


――が。


惟成が、ぽつりと続けた。


「ただ。」


紗世が顔を上げる。


「相手も定まらぬうちから、騒ぎすぎだとは思うがな。」


(相手……)


一瞬、思考が止まる。


「……え、それって……」


思わず言葉が出かける。


惟成は、何でもないように続けた。


「話が先に進みすぎている。」


肩をすくめる。


「順序が逆だ。」


まるで、当然のことのように。


「……順序?」


「まずは――」


一瞬だけ、言葉を選ぶ。


「互いを知ることだろう。」


さらりとした口調。


だが。


その言葉に、妙な重みがあった。


(……え)


紗世は、惟成を見た。


惟成は視線を逸らしたまま、裾を直している。


「……それが済んでからの話だ。」


何でもないように言う。


「餠だの何だのは。」


(ちょっと待って)


胸の奥が、じわっと熱くなる。


(それって……)


「……じゃあ。」


小さく、恐る恐る。


「惟成は……」


言葉が詰まる。でも、聞きたい。


「……嫌じゃ、ないの?」


惟成が、ぴたりと手を止めた。


沈黙。


ほんの数秒。


それから。


「……嫌なら。」


低く、短く。


「最初から、否定している。」


はっきりとした声。


逃げていない。


「……。」


紗世の呼吸が止まる。


惟成は、それ以上は何も言わない。


ただ、いつも通りの顔で襟元の紐を締め直す。


(……なにそれ。…ずるい。)


胸が、うるさい。


でも。


嫌じゃない。


むしろ――


少しだけ、嬉しい。


「……もう。」


紗世は小さく笑った。


「分かりにくいんだから。」


「そうか。」


本気で分かっていない顔。


「そうだよ。」


くすっと笑う。さっきまでの重さが、少しだけ軽くなる。


「……でも。」


一歩だけ近づく。


「ありがとう。」


惟成は、何も言わない。


ただ一瞬だけ、視線が合った。


それだけで、十分だった。


廊下に、静かな空気が流れる。


さっきまでとは違う、少しだけ近い距離のまま。



───和泉守邸・門前


そこには、旅支度を終えた惟成と牛車、そして和泉守邸の雑色・雪丸の姿があった。


「じゃあ、雪丸。都まで惟成をお願いね。」


紗世が声をかける。


「姫君、お任せください。都へは何度も参っておりますゆえ、必ずや無事に源殿をお送りいたします。」


雪丸は胸を叩いた。


「和泉守様、御者の手配、ありがたく存じます。」


惟成は一歩進み、頭を下げる。


「何を言う。惟成殿も貴族。歩かせるわけにはいかぬだろう。」


和泉守はすっと目を細めた。


「惟成殿、また来い。そなたとは、もう一度、酒を酌み交わしたい。」


「父上、泣き上戸で潰れて寝るから、正直うざいと思う。」


紗世が横から真顔で言った。


「うるさいぞ、姫。男同士、語りたいこともあるのだ。……のう、惟成殿。」


「……そうですね。」


「惟成、嫌なら嫌って言っていいよ。」


「嫌ではない……な。」


惟成は和泉守の方へ向き直った。


「私も、姫君の幼き頃の話を聞いてみとうございます。」


「そうだろう!?そうだろう!!姫の武勇伝は山ほどあるでな、一晩では語り尽くせぬ!」


「やめてよおおおお!!!」


紗世は扇に顔を埋めた。


その様子に、皆がどっと笑う。


冬の空気の中、柔らかな温もりが広がった。


やがて、惟成は紗世へと視線を向けた。


「では、な。」


短く言う。


「都で、お前を迎える支度を整える。……待っていろ。」


一拍。


「必ず、迎えに来る。」


紗世は目を見開き――


それから、ふっと笑った。


「うん。……じゃあ、次は都で。」


「ああ。」


静かな約束だった。


「ああ、惟成殿。」


和泉守がふと思い出したように声をかける。


「はい。」


「父の惟光殿に、よろしく伝えてくれ。」


「……!父をご存じなのですか?」


「聞いておらぬか?私と惟光殿は、武官時代の同僚よ。当時は一番親しかったな。」


「ええ!?惟光様が!!?」


紗世が目を丸くする。


「嘘よ!だって惟光様、すごく冷静沈着でしょ!?父上とは正反対じゃない!」


「確かにそうなのだがな。だが、ウマが合ったのだから仕方あるまい。」


和泉守は豪快に笑った。


そして、にやりと口角を上げる。


「……だから、姫がそなたに惹かれたのも、分かる気がする。」


一瞬、空気が止まる。


「血筋かもしれぬな。」


惟成は、わずかに目を見開いた。


(……そう、なのか)


胸の奥で、何かが引っかかる。


だが、それ以上は追わず、すぐに表情を戻した。


「承知しました。父に伝えます。……では、そろそろ。」


「ああ。道中、気をつけてな。」


惟成は牛車に乗り込み、短く言う。


「では、頼む。」


「はっ!」


雪丸が手綱を取り、牛車はゆっくりと動き出した。


紗世たちは、その姿が見えなくなるまで見送っていた。




───道中


「雪丸とやら。」


牛車の中から声をかける。


「はい。なんでございましょう。」


「お前の仕える邸は、良い邸だな。」


「和泉守様の邸でございますか?ええ、とても良くしていただいております。」


「そうだろうな。」


「お分かりになるのですか?」


「……なんとなくな。」


雪丸は少し嬉しそうに続けた。


「和泉守様も北の方様も、姫君も、皆お優しいのです。我らだけでなく、領民にも。」


「ああ。」


「特に姫君は、身分に関わらず、人のことでも自分のことのように喜び、泣かれるお方で……皆、姫君を慕っております。」


「姫らしいな。」


「……ですから、少し心配でもあったのです。」


「心配?」


「都の姫君は皆、慎ましやかで淑やかと聞きます。殿方もそういった方を好む、と。」


「まあ……そうかもな。」


「ですから……姫君に、通ってくださる方が現れるのかと……。」


(使用人にまで、そこまで思われているのか。)


惟成は小さく息を吐いた。


「ですが!」


雪丸は声を強める。


「源様のようなお方が来てくださって、本当に嬉しいのです。あの姫君を、お好きだと言ってくださるのでしょう?」


(……好き……?)


一瞬、言葉が止まる。


視線を落とす。


(それは――)


言葉にしようとして、できなかった。


「源様の前でも、姫君はいつもの姫君でいらっしゃいました。作られた姫君ではなく、ありのままの……我らが慕う姫君でした。」


(……ああ)


胸の奥が、静かに落ち着く。


「ですから、源様。これからも姫君を、よろしくお願いいたします。」


しばらく沈黙が続いた。


やがて、惟成は静かに答えた。


「ああ。分かった。」


それ以上は、何も言わなかった。


牛車は、冬の道を進んでいく。


しばらくして――


雪丸に聞こえるか聞こえないかの声で、呟いた。


「……誰よりも、大切にしよう。」


その言葉は、誓いのように、静かに、胸の内へと落ちていった。

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