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第144話 月明かりの夜

紗世の思考回路がショート寸前になっていると、


「──っふっ!」


惟成が、堪えきれずに吹き出した。


「え?」


紗世は顔を上げる。


「お前、今、どうしたらいいか分からなくなって困っただろう?」


優しい表情に、優しい声。


見透かされているのに、不思議と嫌じゃない。


「男はな、そういう所につけこむぞ?」


静かに言葉が落ちる。


「先程、和泉守様も仰っていただろう。世の男の恐ろしさを分かっていない、と。」


「う……」


紗世はぐうの音も出なかった。


「だからな――」


惟成は小さく息を吐く。


「夜に。男の居る几帳の内に。入ってくるな。」


怒ってはいない。ただ、抑えている。自分の中の何かを。


それでも――


「でも……」


紗世は小さく言った。


惟成の目が、わずかに動く。


「惟成、明日帰っちゃうし。」


静かな声。


「さっきまで、ずっと父上とばかり話してたし。」


拗ねたように視線を逸らす。


「せっかく家に来てるのに……全然、ゆっくり話せないんだもん……。」


その言葉に、惟成の表情が、ほんのわずかに揺れた。


「……だから、俺の部屋に来たのか?」


小さく頷く。


「こんな夜遅く?」


「……。」


「真砂も連れずに?」


「…………。」


「酔いが回っていると分かってて?」


逃げ場がない。


「……だめ……だった……?」


紗世はゆっくりと惟成を見つめた。


まっすぐに。揺れたままの瞳で。


「だって……明日帰っちゃったら……また、しばらく会えないじゃない……。」


その一言で、空気が変わる。


惟成は、何も言わない。


ただ――


一歩、近づいた。


「……お前が六条邸に戻れるよう、整えると陰陽頭様も言っていただろ?」


「そうだけど……それでも……」


紗世は、そっと惟成の裾を引いた。


「惟成の傍に来たかったの。」


小さく、でも確かに。


「ちょっとの時間でもいいから……近くに感じたかったの。」


沈黙。ほんのわずかな間。


それから――


惟成が、もう一歩近づく。距離が、消える。


「夜に、男の居る几帳の内に入るというのは――」


低い声。


紗世の頬に、指先が触れる。


「こういう事だぞ。」


掠れた声。


「嫌なら、拒め。」


試すような言葉。


紗世は――


その指に、自分の指を重ねた。


逃げない。拒まない。


そのまま、ほんの少しだけ目を閉じる。


月明かりの中、二人の影が、ゆっくりと重なる。


触れるか、触れないか――


一瞬の、静止。


そして、そっと。


唇が、重なった。


ほんのわずか。


触れただけの、軽い口付け。


それでも、そこから微かな吐息が、零れる。


離れる距離も、わずかだった。


「……。」


言葉はない。


けれど、確かに何かが変わっていた。


惟成は、ゆっくりと息を吐いた。


「……今日は、ここまでだな。」


低く、抑えた声。


「明日は、生きて都に帰りたいのでな。」


一気に、空気が緩む。


「ふふっ……そうだね。」


紗世が笑った。


「父上に斬られちゃう。」


「間違いないな。」


短く返す。


張り詰めていたものが、ほどけていく。


「惟成も疲れてるし、休まなきゃだし……私ももう休むね。」


「ああ。」


紗世は立ち上がり――


ふと、振り返った。


そして。


今度は迷いなく、惟成の頬に、軽く口付ける。


「――っ」


惟成の動きが止まる。


「おやすみっ!」


そのまま足早に廊下へ出ていった。


衣擦れの音が遠ざかる。


静寂。


残された惟成は、しばらく動かなかった。


それから、ゆっくりと手で自分の口元に触れる。


「……。」


一拍。


「……本当に、斬られるな。」


ぽつりと呟いた。


わずかに赤くなった頬のまま、その声は、月夜に溶けていった。



───翌朝


簾の外から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。


「……ん……」


紗世は、ゆっくりと目を開ける。


一瞬、ぼんやりと天井を見つめ――


「………………」


次の瞬間。


ばさっ!!


勢いよく布をかぶった。


(なななななななにあれ!!!?!?!?)


心臓が、朝から限界突破していた。


(キスした!!キスしたよね!!?したよね!?夢じゃないよね!?)


じたばたと布の中で悶える。


(しかも何あの空気!!何あの距離!!何あの声!!)


思い出して、


「~~~~~~~っ!!!」


声にならない悲鳴。


(無理無理無理無理!!顔合わせられない!!)


ごろごろと転がる。


完全に崩壊していた。


その時。


「姫君、よろしいでしょうか。」


すっと、簾の外から声がした。


「ひゃっ!!?」


ビクッと跳ねる。


「ま、真砂……!?」


「はい。朝餉の支度が整っております。」


(朝餉……!?無理!!今そのテンション無理!!!)


「……ちょ、ちょっと待って……!」


慌てて身を起こし、呼吸を整える。


(落ち着け……落ち着け私……何も無かった、何も無かった……。)


無理だった。


(いや無かった訳ない!!!)


「……入っていいよ……。」


小さく許す。


すっと真砂が入ってきて――


一瞬、紗世を見た。


そして。


「……姫君。」


「な、なに……」


「寝不足でございますか?」


(やめてその察した顔!!!)


「ち、違うし!!普通だし!!」


「左様でございますか。」


真砂は穏やかに微笑んだ。


(絶対分かってるーーー!!!)


「……ところで。」


さらり、と続ける。


「惟成様は、既にお庭で稽古をなさっております。」


「は?」


思考が止まる。


「……え?」


「朝餉の前に、軽く体を動かすと仰って。」


「……え?」


(え、ちょっと待って。あの人、何事も無かったみたいに!?)


一気に顔が熱くなる。


「……っなにそれ……。」


「とてもいつも通りでいらっしゃいますよ。」


(うそでしょ……。)


「……え、昨日のこと……」


「?」


真砂は首を傾げる。


(あ、言えない)


「……なんでもない。」


ぼそりと呟く。


(なにそれ……私だけ意識してるみたいじゃん……。)


むくれる。


「……行く」


「はい。」


紗世は立ち上がり――


一度、深呼吸した。


(普通に。普通に行く。何も無かった顔で。)


そして、廊下へ出る。


冷たい朝の空気が、少しだけ頭を冷やした。


庭へ出ると――


カン、カン、と木刀の音が響いていた。


惟成が、一人で型を打っている。


朝日に照らされたその姿は、昨日の夜とはまるで別人のように、引き締まっていた。


(……なにそれ……ずる……。)


心臓が、また跳ねる。


その気配に気づいたのか、惟成がぴたりと動きを止めた。


そして、こちらを振り向く。


「……起きたか。」


いつも通りの声。


いつも通りの顔。


何もなかったかのように。


「……うん。」


紗世は、ぎこちなく頷く。


一瞬、目が合う。


(無理無理無理無理!!!)


すぐ逸らした。


惟成はそれを見て――


ほんのわずかに目を細めた。


「どうした。」


「な、なにが!?」


「様子が変だ。」


(お前のせいだよ!!!)


「べ、別に普通だし!!」


「そうか。」


あっさり。


あまりにもあっさり。


(なにそれえええええ!!!)


内心で叫ぶ。


沈黙。


気まずい。


いや、紗世だけが気まずい。


その時。


惟成が、木刀を下ろした。


そして、ゆっくりと近づいてくる。


一歩。


また一歩。


(ちょ、来るな来るな来るな)


逃げたいのに動けない。


惟成が、目の前で止まった。


「……顔が近い。」


思わず言う。


「そうか?」


変わらない声。


でも。


「……」


惟成の視線が、一瞬だけ――


紗世の唇に落ちた。


(今見たよね!?!?)


心臓が跳ねる。


その一瞬だけ。


本当に一瞬だけ。


惟成の表情が、わずかに崩れた。


すぐに戻る。


「朝餉だ。行くぞ。」


何事もなかったように背を向けた。


(なにそれ……)


紗世はその背中を見つめる。


(……覚えてるじゃん……。)


じわっと、顔が熱くなる。


(しかも、私だけじゃないし……。)


少しだけ、息を吐く。


「……もう……」


小さく呟いて、その後を追った。

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