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第143話 宵(酔い)の口

───夜・和泉守邸 客間


ぐう……ぐぅ……


和泉守は脇息にもたれたまま、すっかり眠り込んでいた。


「殿は、すっかりご機嫌になられて……そのままお休みになってしまわれたわね。」


御簾の内から、紗世の母の穏やかな声が落ちる。


「誰か、殿を寝所へお連れして。」


ぱちん、と扇が鳴る。


女房や使用人たちが控えめに進み出た、その時――


「私がお連れいたしましょう。」


静かに、惟成が立ち上がった。


御簾の内から、紗世が顔を覗かせる。


「惟成、大丈夫? だいぶ飲まされてたけど。」


「問題ない。」


そう答えたものの、一歩踏み出した瞬間、ほんのわずかに重心が揺れた。


すぐに立て直す。


(……少し回っているな。)


それでも表情は変わらない。


惟成は和泉守の腕を取り、肩を支えて立ち上がらせた。


ぐったりとした身体は、ほとんど重みを預けてくる。


ずる……ずる……


足はついてくるだけで、ほとんど引きずられている状態だった。


(……なんか、惟成に憑いてる背後霊みたい……。)


紗世は呆れながらも、思わず口元が緩む。


(いや、背後霊っていうか……荷物……?)


その様子を見て、隣の母がくすりと笑った。


「やはり、源殿は大したものね、紗世。」


「え?」


「殿がああして酔ってしまうとね、体の力が抜けてしまって、男の使用人が二人がかりでも大変なの。」


穏やかな声音で続ける。


「それをああして、お一人で運ばれるなんて……。」


一拍置いて、


「……紗世のことも、しっかり護ってくださっているのでしょうね。」


紗世の頬が、ふっと熱を帯びた。


「ち、父上と惟成の様子、見てきます。」


言い訳のように立ち上がり、足早に廊下へ出る。


廊下に出た瞬間。


「……なにこれ!?」


思わず声が漏れた。


紗世の部屋へと続く廊下に、一定の間隔で、ずらりと几帳が並べられている。


「その……殿の、ご指示で……」


後ろから、真砂がそっと耳打ちする。


よく見れば、惟成にあてがわれた部屋から紗世の部屋へと続く動線だけが、きっちり塞がれている。


(……なるほどね。)


一拍。


(いや、なるほどじゃない!!障害物競走か!!?)


廊下の先を見ると、和泉守を肩に担いだ惟成が、ひとつひとつ几帳を避けながら進んでいた。


ずる、ずる、と引きずりながら。


その光景に、紗世は小さく吹き出しそうになる。


「もおー!邪魔邪魔!!」


小走りで駆け寄り、惟成の前に立つと、几帳を次々と端へ押しやっていく。


がた、がた、と軽快に片付いていく障害物。


その背を見ながら、


「……助かる。」


惟成が、ぽつりと呟いた。


「でしょ。」


振り返りもせず、紗世が答える。


どこか、いつもより距離の近い空気。


後ろでは、真砂がその様子を見つめながら、小さく息をついた。


(殿……親の心、子知らず、ですわね……。)


苦笑を浮かべつつ、静かにその後に続いた。



────



惟成は和泉守を運び終え、自室へ戻っていた。


「……っふぅー……」


几帳の内へ入り、そのままどさりと腰を下ろす。


(これほど飲んだのは、初めてかもしれんな……。)


武官として、常に備えてきた身。これほど酒を入れたことはなかった。


簾の隙間から、冷たい夜風が流れ込む。


(……今日は、月が明るいな。)


蝋燭よりも白く、庭を照らしていた。


惟成は月を仰ぎながら、狩衣の襟元をゆるめる。


深く、息を吐いた。


その時――


衣擦れの音が近づく。


「……惟成。起きてる?」


「……ああ。」


短く返す。


すぐに几帳がめくられ、紗世が膝をついて中へ入ってきた。


「……お前、男のいる几帳の内に入ってくるな。」


咎める声も、どこか力が抜けている。


「いいじゃない。」


気にした様子もない。


「……お水、持ってきたの。飲む?」


盆を差し出す。


「……ああ。」


短い返事。


(……だいぶ回ってるみたい…。)


紗世は水を注ぎながら、ちらりと惟成を見る。


月明かりに照らされた姿。


襟の緩んだ狩衣。


そして、どこか熱を帯びた瞳。


(え……ちょっと待って……。なんか……色っぽくない……?)


一気に意識してしまい、慌てて顔を逸らす。


その変化に、惟成は気付いた。


「……どうした?」


いつもより、わずかに柔らかい声。


(なにそれ……声まで違うんだけど……!)


「え、いや……何でもない!」


視線を合わせられない。


惟成は湯呑みを受け取り、そのまま一気に飲み干した。


ごく、ごく、と喉が動く。


何気ない動作が、やけに目につく。


紗世は思わず見入っていた。


「……だから、何だ。」


怪訝そうに見られる。


「え!?いや、その……何でもないってば!」


慌てて取り繕う。


一瞬の間。


惟成の口元が、わずかに歪んだ。


「……見蕩れたか?」


低く、静かな声。


軽く投げたようでいて、どこか距離を測るような響き。


(――え?)


紗世は言葉を失う。


(なにそれ……今の……。

惟成が……そんな言い方……酔ってるから?)


源氏の君や頭中将が時折見せる、あの“間”に似ていた。


けれど――


それを自覚している様子は、ない。


「は?え!?や……」


言葉が続かない。


顔が一気に熱くなる。たまらず袖で顔を覆った。


その手に、惟成の手がかかる。


「……見えん。」


ぽつりと一言。


理由はそれだけ。


ゆっくりと、その手を下ろさせる。


「いつもは、隠さんだろう。」


視線が合う。


逃げ場がない。


紗世は思わず目を逸らした。


「だ、だって……」


「……何だ。」


「なんか……恥ずかしくて……。」


声が小さくなる。


惟成は一瞬だけ黙った。


それから、


「……何で、恥ずかしい。」


静かに問う。


距離は近いまま。


(無理……)


心臓がうるさい。


「こ、惟成……やっぱり酔ってるよ……。」


「……そうかもな。」


あっさり認めた。


(え!?そこ否定しないの!?)


完全に想定外。


思考が追いつかない。


(な、何か話題……!)


「さ、さっきさ!」


思わず早口になる。


「父上に聞かれてたじゃん!私のこと……!」


惟成は黙って聞いている。


「可愛いって言ってたけど……あれ、本当?」


(どうせ流れでとか言うんでしょ……。)


一拍。


惟成は、わずかに目を細めた。


「……思っている。」


短く、はっきりと。


「嘘は言わん。」


そして、ほんの少しだけ身を寄せる。


逃げ場のない距離で――


「可愛いな。」


低く、落ちる声。


(いっ……いやーーーーーーっ!!!

何これ!!無理!!!)


紗世の思考は完全に崩壊した。

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