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第140話 父の威厳

───和泉守邸・庭先


客間では、御簾の向こうで紗世とその母が穏やかに言葉を交わしていた。


しばらくすると――

欄干の向こう、庭の玉砂利を踏みしめる音が近づいてくる。


視線をやると。


そこには、木刀を二本携えた和泉守が立っていた。


「源殿!少し、私と手合わせせぬか?」


「父上!?」


紗世が思わず声を上げる。


「私も和泉守になる前は、京で兵衛尉に就いておった。」


そう言いながら、木刀をくるりと回した。


「つまり――私も元武官よ。」


「左様でございましたか。」


惟成は静かに立ち上がる。


「こ、惟成……!」


御簾の向こうから紗世が呼びかけるが、惟成は一瞬だけ視線を寄越し、そのまま庭へ降りた。


(ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!!)


「はっ……母上!父上を止めて!今すぐ!!」


「大丈夫よ、紗世。殿とてそこまで大人げないことはなさらないでしょう。きちんと手加減は――」


「違う!!逆なの!!逆!!」


「え?」


「いいから早く!!」


さすがにただ事ではないと感じたのか、母は御簾越しに夫へ声をかけた。


「殿――」


「なんだ。心配するな、姫。手加減はする。」


「そうではなく……」


紗世は一瞬言葉を選び、そして言った。


「惟成は、私と初めて会った十二の時には、すでに兵衛志でした。」


和泉守の肩が、ぴくりと揺れた。


「……ほう。」


「しかも、家門の力ではなく……」


「……純粋な武芸で、か。」


紗世は、静かに頷く。


「さらに――」


和泉守がごくりと唾を飲み込む。


「今、都では“源惟成”と言えば、武芸の天才として有名です。」


「まあ……!」


母が扇を深くかざす。


「野盗三人を一瞬で斬り伏せた、という話もありますし……」


(昨日、実際に見たし……)


和泉守は、ゆっくりと振り返った。


庭先で木刀を軽く振る惟成の姿。


「父上……それでも、やるの?」


紗世が真顔で問う。


冬の空気の中、和泉守の額から、じわりと汗が流れた。


「お……おっ男に……二言はないっ!!」


声は見事に裏返っていた。


それでも――


和泉守は、逃げなかった。




庭先。


惟成は木刀を軽く振りながら考えていた。


(和泉守様の腕は分からん……三、四合打ち合えば見えるか。)


ちらり、と御簾の方を見る。


(……俺が勝つのは、まずいな。


だが露骨に負けるのも、もっとまずい。


……面倒だな。)


そこへ、和泉守が戻ってきた。


「で、では源殿。軽く……手合わせを。なに、軽い運動と思えば良い。」


「はい。」


惟成は構える。


(――隙が、ない……!)


構えた瞬間、和泉守の心が折れかけた。


「来られぬのでしたら、こちらから参ります。」


ザッ──


カンッ!


カンッ、カンッ!!


(はやっっ!!?これで軽い運動か!?)


必死に受けるので精一杯だった。


(……辛そうだな。少し落とすか。その時に和泉守様が攻撃に転じてくれれば…)


惟成はわずかに速度を緩める。


その瞬間――


(今だっ!)


和泉守、反撃。


「あ、今度は殿が攻めておりますよ。」


母が楽しげに言う。


「父上もお強いのですね!」


(惟成、めっちゃ手加減してるけど……!)


紗世は内心で叫びながら見守った。


ガンッ!!


木刀がぶつかり合い、力比べになる。


二人の顔が近づいた。


「……源殿……」


和泉守が、小さく囁く。


ギリッ……


「分かっておるな……。」


ガッ!ガン!!


再びぶつかる。


「私は……父の威厳というものがある……。」


(……負けろ、ということか。)


「………この後、私が一歩下がって右へ木刀を振ります。」


和泉守の目が、かすかに見開かれる。


「……ふむ。」


ほんの一瞬。その表情に安堵がよぎった。


力比べが崩れる。


惟成は一歩、後ろへ引き――


宣言通り、右へ木刀を振り上げた。


その瞬間。


────カァンッ!!


和泉守が、力任せに左から打ち込む。


惟成の木刀が弾き飛ばされ、宙を舞った。


カラン――


静寂。


「……見事でございます、和泉守様。私の完敗です。」


惟成は静かに両手を上げた。


「……う、うむ。」


(た、助かった……。)


和泉守は内心で全力で息をついた。



御簾の内。


「まあ!殿、お見事ですわ。」


母は楽しそうに笑う。


「やはり経験の差かしらね、紗世?」


「そうですね!父上すごい!」


(惟成ありがとうぉぉぉ……。)


紗世は心の中で全力で拝みながら、小さく拍手した。


庭先では――


(……なかなか骨の折れる任務だったな。)


惟成が、静かに息を吐いていた。



──和泉守邸・客間


庭での手合わせを終え、再び客間。


空気は先程までとは明らかに違っていた。


穏やか――ではあるが、どこか張り詰めている。


和泉守は湯呑みを手にしながら、じっと惟成を見据えていた。


「……源殿。」


「はい。」


「先程の太刀筋……見事であった。」


「恐れ入ります。」


淡々とした返答。


隙がない。


(……やはり、ただ者ではないな。)


和泉守の中で、警戒が一段上がる。


御簾の内では、紗世と母が静かに様子を見ていた。


「さて――」


和泉守が、ゆっくりと湯呑みを置いた。


「一つ、聞こう。」


(来た……。)


紗世が内心で身構える。


「そなた、姫とは――いつからの間柄だ?」


ぴたり、と空気が止まった。


「都で、お仕えしていた折に知り合いました。」


即答。


「ほう。」


「任務に関わる中で、何度か顔を合わせる機会がありました。」


無駄がない。だが、無機質すぎるほど整っている。


(……綺麗すぎる答えだな。)


和泉守の目が細くなる。


「“何度か”とは、どの程度だ?」


「必要な折に。」


「必要とは?」


「護衛、もしくはそれに準ずる状況です。」


「ふむ……。」


(逃げるな、この小僧……。)


さらに踏み込む。


「では――」


和泉守は、わざと間を置いた。


「名で呼び合うほど親しくなる“必要”が、どこにあった?」


御簾の内。紗世の肩がびくっと揺れる。


(父上それは直球すぎるって!!)


惟成は、ほんの一瞬だけ沈黙した。


だが動じない。


「……呼称は、状況に応じて簡略化されるものです。」


「簡略化。」


「戦場、もしくは緊急時において、呼びやすさは重要ですので。」


「ここは戦場か?」


「いいえ。」


「では緊急時か?」


「今は違います。」


「ではなぜだ?」


(詰めるなぁ……。)


紗世が頭を抱えたくなる。


惟成は静かに視線を下げた。


そして。


「……習慣、かと。」


とだけ言った。


一瞬の沈黙。


御簾の内。


(うわあああああそれ一番ダメなやつ!!!)


紗世が心の中で絶叫する。


和泉守の眉が、ぴくりと動いた。


「……習慣、とな。」


「はい。」


「つまり、日常的に名で呼ぶ間柄であった、と。」


「結果としては。」


「ほう。」


(認めたなこの男……。)


和泉守、さらに一歩踏み込む。


「ではもう一つ。」


空気がさらに張る。


「昨夜――」


御簾の内、紗世が凍る。


「宿坊では、どう過ごした?」


「休みました。」


即答。


「それだけか?」


「それだけです。」


「同じ屋根の下で?」


「はい。」


「二人きりで?」


「部屋は分かれておりました。」


「……何もなかったと?」


「はい。」


(信じるかそれを!!?)


和泉守の中でツッコミが炸裂する。


しかし外面は崩さない。


「……そうか。」


湯呑みを持ち上げる。


手は、微妙に震えている。


(この男……嘘はついていない顔だ……。

だが、だからこそ本音が見えず、操作も効かぬ……厄介だ……。)


ふと。


視線が御簾の向こうへ向く。そこには、何も言えずにいる紗世。


(……姫よ。これは……危ういぞ。)


再び惟成へ。


「源殿。」


「はい。」


「最後に、一つだけだ。」


低く、静かな声。


「そなた――姫を、どう思う。」


完全な静寂。


紗世の心臓が止まりそうになる。


(ちょっと待ってそれはダメでしょ父上!!!)


母、扇の向こうでニヤニヤ。


惟成は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


そして。


「……守るべき方、です。」


短く。


それだけを言った。


飾りも、揺らぎもない。


ただの事実のように。


その一言に。


御簾の内で、紗世の胸が小さく鳴った。


和泉守は、しばらく黙っていたが――


やがて、ふっと息を吐いた。


「……そうか。」


それ以上は、何も言わなかった。


だが。


(この男――簡単には帰さん。)


心の中で、静かに決めていた。

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