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第138話 宿坊の夜

やがて――

和泉北部の宿坊の灯が、夕闇の向こうにぼんやりと浮かび上がった。


牛の歩みがゆるやかになり、車輪が砂を踏む音も静かになっていく。


紗世は簾の隙間から、そっと外を覗いた。


牛車の脇には、惟成がいた。


先ほどまで自分のすぐ目の前にいた人が、もう何事もなかったかのように御者として牛の手綱を取って歩いている。


きちんと結い直された黒髪。


乱れなく整えられた衣。


そして、感情を閉ざしたような横顔。


ついさっきまであんなに近くにいたはずなのに。


その背中はもう、いつもの源惟成だった。


「……」


紗世は小さく息を呑んだ。


あの牛車の中で交わした空気まで、暮れゆく空の中へ置いてきてしまったようだった。


やがて牛車が止まる。


惟成は紗世を振り返ることなく、静かな声で宿坊へ告げた。


「一夜の宿を頼みたい。」


宿坊の僧が灯を持って現れ、牛車へ視線を向ける。


「女人連れでございますか。」


「ああ。」


短い返事。


その声にはもう、先ほどの柔らかさは欠片も残っていなかった。


紗世は簾の内側で、そっと袖を握りしめる。


(……戻っちゃった。)


胸の奥だけが、少し寂しかった。


その時だった。


「三条殿。」


惟成が、初めてこちらを見た。


「降りられるか。」


無表情のまま差し出された手は、それでもほんの少しだけ優しかった。



その夜――


年の瀬の宿坊は、昼のざわめきが嘘のように静まり返っていた。


外気は刺すように冷たく、戸の隙間から入り込む気配だけで、夜の深さが分かる。


与えられた部屋で横になっても、紗世はなかなか眠れなかった。


昼間の襲撃。


鬼の面。


そして――


牛車の中での、あの一幕。


(……鬼、って……)


思い出した途端、じわじわと笑いが込み上げる。


(「鬼になってもらう」って言われた時点で、

ちょっと嫌な予感はしたけど……)


あの姿。


あの圧倒的な強さ。


そして、面を外した時の、あの顔。


(似合いすぎでしょ……。)


くす、と布団の中で小さく笑ってしまう。


(しかも、あのまま何事もなかったみたいに

御者やって宿に入るとか……何なのあの人……。)


昼間の緊張が解けた反動で、おかしさと、妙な高揚が混ざる。


けれど同時に、宿に着いた途端、すっと無表情に戻った惟成の横顔が頭から離れなかった。


笑っていた空気が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。


(……切り替え、早すぎでしょ……。)


目を閉じるほど、かえって眠れない。


「……少しだけ。」


小さく呟き、紗世は身を起こす。


真砂もいない今夜は、部屋の静けさがやけに胸に沁みた。


袿を肩に掛け、足音を忍ばせて廊下へ出る。


冷たい空気が、すっと頬に触れた。


(寒っ……やっぱり真冬だわ……。)


思わず肩をすくめた、その時。


「……起きていたか。」


低い声が、すぐ近くから落ちた。


「ひゃっ……!」


振り向くと、柱にもたれるようにして惟成が立っていた。


昼と変わらぬ無表情。

けれどどこか、闇に溶けるような静けさをまとっている。


「おどかさないでよ……。」


「おどかしたつもりはない。」


「惟成が気配消してるからでしょ。」


紗世が睨むと、惟成はわずかに目を伏せた。


それだけで、さっきまでの軽さが少しだけ崩れる。


(……なんか、ずるいんだよね。)


昼間、あんな“鬼”みたいなことしておいて、今は何事もなかった顔してる。


「……それにしてもさ。」


紗世はふっと口元を緩めた。


「“鬼になってもらう”って言われた時さ、もっとこう……比喩的なやつだと思うじゃん?」


「知らん。」


「いや絶対そう思うでしょ普通!まさか本当に鬼で来るとは思わないって!」


「あれが一番都合がいい。」


「都合よすぎでしょ……。」


くすくすと笑う。


「でもまあ、あの供人たちの引きっぷりは納得だけどね。

“鬼相手では……”とか、“人の太刀筋じゃない……”とか顔に書いてあったっていうか、言ってたし。」


「事実だ。」


「否定しないんだ……。」


紗世は肩をすくめて笑った。


「ほんと、損な性格。」


「放っておけ。」


「はいはい。」


軽口を交わした、そのあと。


ふっと、空気が落ち着いた。


遠くで風が鳴る。

火の気のない廊下は、じわりと冷えていた。


しばらく黙っていた惟成が、ぽつりと口を開く。


「……昼間。」


「ん?」


「三条が、鬼と共に行くと――

鷹丸様にも伝えよ、と言っていたな。」


紗世の動きが、ほんのわずかに止まった。


「……うん。」


「供人の証言で、いずれ伝わる話だ。」


淡々とした声。


けれど、どこか引っかかる。


「なぜ、わざわざ言った?」


紗世は一瞬だけ視線を落とした。


「……ちゃんと、無事だって分かるように、かな。」


「無事?」


「うん。攫われたとか、殺されたとか――

そういう風に思われるのは、嫌だったから。」


火のない廊下で、言葉だけが小さく響く。


惟成は少しの間、黙っていた。


「……そうか。」


短く、それだけ。


けれど――


「随分と、気にかけているな。」


ぽつりと落ちた一言に、紗世は顔を上げた。


「それは――」


言いかけて、やめる。


(……言わない方がいい)


あの夜のことも、あの言葉も。


惟成には、話すべきじゃない気がした。


紗世は小さく息を吐き、肩をすくめる。


「お世話になった人だもん。それくらい普通でしょ。」


軽く言う。


惟成はわずかに目を細めたが、


「……そうか。」


それ以上は何も言わなかった。


沈黙が戻る。


さっきより、少しだけ重い静けさ。


その時――


廊下を抜ける冷たい風が、ふわりと吹き込んだ。


紗世の横髪が揺れて、頬にかかる。


その細い髪へ、惟成の手が、静かに伸びた。


紗世は息を止める。


指先が、髪に触れ――


かすかに、掬う。


一瞬だけ。


本当に一瞬だけ。


それだけで、心臓が跳ねた。


惟成の指は、すぐに離れる。


何事もなかったかのように。


「……乱れていた。」


それだけ言って、視線を外す。


紗世は何も言えず、ただその横顔を見た。


そして、ふと思い出す。


「……ねぇ。」


「なんだ?」


「昨日、舟の上で風に舞った私の袿、押さえてくれたの、惟成?」


「………さあ。どうだろうな。」


昼間、鬼の面の下で見た顔と同じなのに、今はまるで別人のように静かで、


けれど――


触れた指先の感触だけが、やけに残っていた。


外の冷気が、ようやく肌に刺さってくる。


「……寒い。」


「中に戻れ。」


「惟成もでしょ。」


「後で戻る。」


いつもの調子。


いつもの距離。


なのに――


さっきの一瞬だけが、確かにそこに残っていた。


紗世は小さく頷くと、静かに部屋へ戻っていった。


廊下には、再び静寂だけが残った。

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