第137話 触れる距離
松林を抜ける夕暮れの風が、わずかに牛車の簾を揺らす。
異形の者は、ゆっくりと牛車の中へ身を滑り込ませた。
狭い車内に、ひやりとした外気と、男の体温が同時に入り込む。
鬼面の奥から、じっと紗世を見下ろす気配がした。
「そんなに面白いか。」
「だって……
あんな怖い声まで出して……っ」
思い出した途端、紗世はまた肩を震わせた。
「この娘は、我が貰い受ける――って……
ふふっ……本当に鬼みたいだった……。」
「……誰のせいだと思ってる。」
呆れた声が落ちる。
紗世は笑いながら、そっとその鬼面に手を伸ばした。
「でも……もう外していいでしょう?」
細い指先が、冷たい面の端に触れる。
異形の者は一瞬だけ動きを止めたが、何も言わなかった。
紗世はゆっくりと、その面を持ち上げた。
するり――
鬼の面が外れ、その下から現れたのは、見慣れた惟成の顔だった。
少し乱れた黒髪。
静かな目。
そして、いつものように感情を隠した無表情。
けれど、耳だけがわずかに赤い。
紗世は目を丸くした。
「……惟成、ちょっと赤い。」
「気のせいだ。」
「ふふ、赤い。」
「気のせいだ。」
紗世は面を膝の上に置き、楽しそうに笑った。
「怖い鬼の正体が惟成だなんて……誰も思わないよね。」
「思われたら困る。」
「でも、すごかった。本当、鬼みたい。」
その言葉に、惟成は一瞬だけ視線を逸らした。
「……着替える。後ろを向いてろ。」
「あ、うん。」
紗世は素直に頷いて、くるりと背を向けた。
背後で、衣擦れの音が静かに響く。
肩衣が落ちる音。
衣を外す気配。
布が重なる音。
(だめだめだめ……見ちゃだめ……)
そう思うほど、気になってしまう。
紗世は、ほんの少しだけ振り返った。
「――――」
息が止まった。
着替えの途中で露わになった惟成の背中は、驚くほど引き締まっていた。
細いのに薄く筋が走り、肩から背へ流れる線が綺麗すぎる。
そのまま少し下には、うっすら浮かぶ腰の筋。
(ちょっと待って……何あれ……)
紗世の頭の中で、現代の感覚が一気に騒ぎ出す。
(背筋……やば……
なにこれ……
ダビデ像そのままじゃん……!)
さらに視線が下がる。
着替えの途中で覗く腹筋が、衣の隙間からちらりと見えた。
(腹筋まである!!平安貴族ってこんななの!?いや惟成だけ!?)
「紗世。」
低い声に、びくっと肩が跳ねた。
「見てるだろ。」
「み、見てない!」
「見てる。」
「……ちょっとだけ。」
惟成は深くため息をついた。
その反応が可笑しくて、紗世はそっと手を伸ばした。
「ちょっとだけ……触ってみてもいい?」
「は?」
返事を待つ前に、紗世の指先が惟成の背に触れた。
ぴくっ
惟成の肩が跳ねる。
「わっ……ほんとに硬い……」
「おい。」
今度は腹筋に、そっと指先を当てる。
「こっちも……すご……」
「紗世。」
「え、なにこれ、ほんとに石みたい――」
その瞬間、惟成が紗世の手首を掴んだ。
「触るな。」
珍しく、少しだけ焦った声だった。
紗世は目を瞬かせ、次の瞬間、吹き出した。
「惟成、慌ててる。」
「慌ててない。」
「慌ててる。」
「……お前が変なことするからだ。」
紗世は笑いながら、掴まれた手を見た。
惟成の手は熱く、思ったよりずっと大きい。
そのまま二人の距離が近づいて、牛車の中の空気が、ふっと変わった。
さっきまで笑っていたのに。
急に、静かになる。
紗世は自分の手を見つめたまま、小さく呟いた。
「えと……ごめん。」
惟成は、少しだけ目を細めた。
「謝るくらいなら、最初からするな。」
そう言いながら、掴んだ手首をやさしく離した。
紗世は頬を赤くして、そっと視線を逸らした。
その横で惟成は、何事もなかったように衣を整え、静かに言った。
「……もうすぐ宿だ。」
さっきまで鬼だった男が、今はいつもの惟成に戻っている。
けれど紗世の胸だけが、さっきからずっと、妙に騒いだままだった。
惟成が衣を整え終えると、紗世はふと気づいて目を瞬いた。
「……惟成。」
「なんだ。」
「その髪のまま宿に入るの?」
惟成は一瞬だけ黙った。
鬼に扮するために下ろされた黒髪が、肩のあたりにさらりと落ちている。
「……忘れていた。」
「忘れないでよ……。」
紗世は思わず笑った。
「そのままだと、さっきの鬼がそのまま宿に入ってきたみたい。」
「お前が笑いすぎるからだ。」
「人のせいにしないで。」
そう言いながら、紗世はそっと手を伸ばした。
「後ろ向いて。」
「……何をする。」
「結い直してあげる。」
「自分でできる。」
「でも見えにくいでしょう?」
惟成は少しだけ黙り、やがて静かに背を向けた。
牛車の中で、紗世は惟成の髪を両手でまとめる。
さらりと指の間を滑る黒髪は、驚くほどなめらかだった。
(……髪まで綺麗なんだけど。)
思わず、変なところで感心してしまう。
紗世は小さく髪を束ねながら、襟足に目を留めた。
結い上げられていない今だけ見える光景。
そのすぐ下に、衣の隙間から覗く首筋。
妙に色っぽくて、紗世は思わず手を止めた。
「……どうした。」
低い声が落ちる。
「な、なんでもない。」
慌てて結い直すと、惟成が静かに言った。
「……お前の方こそ、顔が赤い。」
「言わないで。」
紗世が小声で返すと、惟成の肩がほんの少しだけ揺れた。
「……笑った?」
「笑っていない。」
「今笑った。」
「気のせいだ。」
そう言いながら、二人の距離だけが狭い牛車の中で静かに近づいていた。




