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第136話 異形の者

───旅程二日目


紗世は、昼を過ぎた頃から胸の奥の緊張が少しずつ強くなっているのを感じていた。


(昨日の淀や住吉のような人通りが、もうほとんど無い……。)


牛車の物見から外を窺うと、街道を行き交う人影はまばらになり、代わりに冬の淡い陽に照らされた松林が、静かに続いていた。


(もう少し進めば、もっと人は少なくなる……。)


膝の上で、知らず知らずのうちに袖を握りしめる。


(私を攫おうとする人は、何人で来るのかな……

供人の人たちは武芸ができるのかな……

御者まで巻き込まれたら……。)


考えたくないことばかりが、次々と浮かんでは消えていく。


(……惟成……)


その名を胸の中で呼んだ時、御簾の外から供人の声がした。


「間もなく和泉国北部に入ります。

あと四半刻ほどで、松林の街道に入ります。

そこを抜ければ、本日の宿泊先にございます。」


紗世の胸がどくりと鳴った。


──和泉国北部。

──松林の街道。


陰陽頭が告げた、最も襲われやすい場所。


「……そうですか。」


声が少しだけ硬くなった。


やがて周囲から人の気配が消え、聞こえるのは、牛車の軋む音、牛の足音、供人たちの草履の擦れる音、そして松の枝が風に揺れる音だけになった。


(入ったんだ……松林に……。)


どくん、どくん、と

自分の心臓の音だけが大きく聞こえる。


その時──


「止まれ。」


前を歩いていた供人が低く言った。


牛車が止まる。


「前方に、街道の真ん中で座り込んでいる者がおります。」


「一人が怪我をし、もう一人が手当てをしているようです。」


「……そう……ですか……。」


紗世の喉が乾いた。


普段の紗世なら、迷わず助けるよう言っていたはずだった。


けれど今は、胸の奥で別の声がした。


(……罠かもしれない。)


その迷いが、言葉を止めた。


「手当てをしていた者が、こちらに気付きました。」


「こちらへ来ます。」


紗世ははっとして物見から外を覗いた。


男が小走りで近づいてくる。


その手元が、衣の陰で一瞬光った。


「気をつけて!その男、何か持ってます!!」


「──っ!」


ガキンッ!!


供人が咄嗟に刀を抜き、振り下ろされた刃を受け止めた。


同時に、怪我人のふりをしていたもう一人も飛び起き、刀を抜いて駆けてくる。


「女房殿は牛車から出られぬよう!」


金属のぶつかる音が響いた。


キンッ!

ガキンッ!

ザザッ──!


牛車の外で、一気に空気が変わる。


紗世は青ざめながらも、物見から目を離せなかった。


その時、逃げ惑っていた御者の背後に、もう一人の男が忍び寄っているのが見えた。


刀が、静かに振り上げられる。


(御者……っ後ろ……!!)


気づいた時には、紗世は牛車から飛び出していた。


「危ない!!」


御者の腕を掴み、強く引く。


けれど、男の刃はもう振り下ろされていた。


(間に合わない──)


──ザシュッ!!


「ぎゃああっ!!」


男の悲鳴が響いた。


刀を持つ腕が、肘から先、血を散らして宙を舞った。


紗世が息を呑む。


そこに立っていたのは──


ぼろ衣をまとい、乱れた黒髪を垂らし、鬼面をつけた異形の者だった。


「……鬼……っ!?」


御者が腰を抜かしたように後ずさる。


異形の者は一言も発さず、そのまま流れるように残る二人へ向かった。


キィン──ッ!!


二人がかりの太刀を、一本で受ける。


次の瞬間には、一人の脚を払い、もう一人の肩を裂いていた。


「なっ……!」


「速──っ!」


誰の目にも、人の動きには見えなかった。


供人たちさえ、息を呑んで動けない。


やがて襲ってきた三人は、地に伏して呻いていた。


だが、腕を斬られた男だけが、苦悶しながら立ち上がり紗世へ向かって行った。


その瞬間──


「きゃっ!」


紗世の体がふわりと浮いた。


異形の者が、紗世を肩に担ぎ上げたのだ。


そのまま振り返りざまに、男の太腿を斬り裂く。


「ぐあああっ!!」


男は地に転がった。


異形の者はそのまま、供人たちへゆっくり刀を向けた。


「この娘は──我が、貰い受ける。」


「な……っ」


供人が顔を強ばらせる。


「去れ。」


低い声が、鬼面の奥から響いた。


「し、しかし……その女房は……」


「不思議な力を持つ女。

我と共にあるが道理。」


もう一人の供人が、震える声で言った。


「だが……我らは、この方を送り届けねば……」


その時、先ほどまで戦っていた供人が、青ざめた顔で呟いた。


「……無理だ……。」


「何を言う。」


「見ただろう……。

あれは、人の太刀筋ではない……。」


その一言で、供人たちの顔色が変わった。


異形の者の刀先が、夕陽を受けて鈍く光る。


紗世は自ら異形の者の肩からするりと静かに降り、異形の者へ身を寄せた。


「わたくしは……

このお方と共に参ります。」


「女房殿……!?」


「鷹丸様には、そうお伝えください。」


供人たちは互いに顔を見合わせた。


「……鬼に魅入られたのか……。」


「……そうとしか……」


御者が震えながら牛車へ近づこうとすると、


「牛車は置いてゆけ。

我が妻を、人目に晒したくない。」


「は、はっ……!」


御者は慌てて手を離した。


供人たちはなお迷うように立ち尽くしていたが、再び鬼が一歩踏み出すと、ついに後ずさった。


「……退くぞ……。」


「……ああ……。」


やがて御者と供人たちは、何度も振り返りながら来た道を戻っていった。


襲ってきた男たちも、傷を押さえながら松林の奥へ消えていく。


静寂だけが残った。


異形の者は、紗世へ短く言った。


「乗れ。」


「はい。」


紗世は素直に牛車へ乗り込んだ。


牛車が再びゆっくり動き出した。


そして――

街道を抜ける少し手前で。


牛車の中から、くすくすと笑い声が漏れた。


「ねえ……もう、いいんじゃない?」


しばしの沈黙のあと、


「……そうだな。」


低い声が返る。


次の瞬間。


「あはははははっ!」


紗世は堪えきれず笑いながら、簾を上げた。


「鬼になってもらうって……

本当に鬼で来るなんて思わなかった……!」


「うるさい。」


そう言って牛車を静かに止めた。

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