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第135話 不穏な旅路

───翌朝


「ではな。三条殿。道中、気を付けて帰るのだぞ。」


鷹丸は、牛車の傍らに立ったまま静かに言った。


「はい。中務卿宮様には、御者のほかに供人まで二人も付けていただいて……本当にありがとうございます。」


紗世は袖を揃え、深く頭を下げた。


「結局、中務卿宮様には最後までお目にかかれませんでしたが……三条が深く感謝していたと、どうかお伝えください。」


「ああ。必ず伝えよう。」


鷹丸はそう答えると、少しだけ表情を和らげた。


「和泉国へ着いたら、文をくれ。」


「はい。」


「もし、その文がいつまで経っても届かなければ──」


鷹丸はわずかに身を屈め、牛車の簾越しに紗世を見つめた。


「私が和泉国まで確かめに行く。」


思わず、紗世は小さく笑った。


「ふふ……分かりました。

必ず、お便りいたします。」


その笑みに、鷹丸もようやく静かに微笑んだ。


「ああ。約束だ。」


束の間、二人の間にだけ、穏やかな朝の空気が流れた。


鷹丸は御者と供人たちへ向き直った。


「くれぐれも、三条殿を頼む。」


「はっ。」


供人たちが一斉に頭を下げる。


牛車がゆっくりと軋み、静かに動き始めた。


簾の向こうで、紗世は小さく頭を下げる。


鷹丸はその姿を見つめたまま、牛車が門の向こうへ消えていくまで、その場を動かなかった。


「三条……」


誰にも聞こえぬほど小さく、その名を呼ぶ。


「必ず迎えに行く。……待っていてくれ。」


握り締めた拳に、静かな想いだけが残っていた。



牛車の中で、紗世は小さく息を吐いた。


揺れる車内には、まだ昨夜の鷹丸の温もりが

胸の奥に残っているような気がした。


(あんなに真っ直ぐ想ってくださっているのに……)


膝の上で、そっと指先を握りしめる。


(私は、その想いに応えられない……。)


胸の奥に残る罪悪感が、じわりと重く沈んでいった。


けれど次の瞬間、紗世はふるふると首を振った。


そして、自分の頬を軽く両手で叩いた。


ぱちん。


小さな音が、静かな牛車の中に響く。


(駄目。今はそれどころじゃない。

この道中……

私は攫われるかもしれないんだから。)


陰陽頭は昨日、中務卿宮別邸を訪れた際に、密かに紗世に


「襲うなら、宇治から離れ、人目が減る二日目の夕刻だろう。

和泉国北部へ入る頃が、最も危うい──」


と伝えていた。


紗世はそっと、牛車の隅に積まれた荷に目を向けた。


そこには、自分の荷に紛れるようにして、惟成の着替えが一式、静かに置かれていた。


(惟成の着替えを積んでおいてほしい──

そう言われたけれど……。)


牛車に付き従うのは、惟成ではなく、見慣れぬ供人たちだった。


陰陽頭は


「惟成殿には鬼になってもらう。」


とだけ言い、それ以上のことは何も教えてはくれなかった。


(……鬼って、どういう意味なんだろう。)


不安は消えない。


けれど、今は信じるしかない。


牛車の外では、車輪が土を踏む音だけが規則正しく続いていた。


ごと……

ごと……


その単調な揺れに、昨夜ほとんど眠れなかった身体が少しずつ重くなっていく。


(少しだけ……

目を閉じるだけ……)


簾の向こうから差し込む朝の光が、ゆるやかに揺れた。


そうして紗世を乗せた牛車は、静かに宇治を離れ、和泉国へ向かう、長い旅路へと入っていった。



───


旅路の初日は、宇治から淀までは牛車で進み淀から先は舟に乗り換え、川を下って住吉へ向かうことになっていた。


川沿いには、年の瀬を前に荷を運ぶ者や、行き交う舟の姿が思いのほか多い。


(もう、年末も近いもんね……。荷物を運ぶ人も、舟も、こんなに多いんだ……。)


紗世は市女笠の隙間からそっと周囲を見渡した。


舟の上では、供人たちが周囲へ気を配りながら、静かに紗世の近くに控えている。


そのうちの一人が、紗世へ向かって穏やかに声を掛けた。


「今日はこのあと、難波で舟を降りまして、その後、住吉まで向かいます。

今夜は住吉で一泊となります。」


「はい。分かりました。ありがとうございます。」


紗世は小さく頭を下げ、礼を返した。


(住吉かぁ……)


住吉と聞いて、自然とあの社が頭に浮かぶ。


(住吉大社にお参りでもしたいけど……

きっと着く頃には夕方だろうし……。)


袿の袖をそっと握る。


(狙われているかもしれないのに、あちこち歩くのも良くないよね……。)



ひゅう──と、川の上を冷たい風が吹き抜けた。市女笠の縁が何度も揺れたため、そっと外し、代わりに袿を頭から被り直した。


その時。


風に煽られた紗世の袿の端がふわりと浮き上がる。


そのまま、川面へ触れそうになった瞬間──


後ろから、すっと誰かの手がそれを押さえた。


「……え?」


紗世は思わず振り返った。


けれど、そこにいるのは荷を抱えた旅人や、櫂を操る舟人、そして見慣れぬ乗客ばかりだった。


誰ひとり、紗世に触れたような様子はない。


(……今の……)


紗世はそっと、押さえられた袿の端へ手を触れた。


ほんの一瞬だけだった。


けれど、その指先の静かな触れ方に、紗世の胸が小さく鳴った。


(……誰……?)


ただ──


あの触れ方には、どこか覚えがあった。


けれど、紗世が振り返った時には、もうその手の主は人の気配の中へ紛れてしまっていた。


(……気のせい……?)


そう思いながらも、胸の奥に残った違和感だけは消えなかった。


その時だった。


「──おい!」


舟の前方で、鋭い声が上がった。


紗世が顔を上げると、荷を積んでいた若い男が足を滑らせ、舟の縁へ大きく身体を傾けていた。


抱えていた俵が崩れ、男の身体ごと川へ落ちかけている。


「危ない!」


誰かが叫ぶ。


次の瞬間、近くにいた年配の舟人が咄嗟に腕を掴んだが、荷の重みで二人ともよろめいた。


舟が大きく揺れ、乗っていた者たちの悲鳴が上がる。


「きゃっ──」


紗世も思わず牛車の時とは違う揺れに身体を強張らせた。


供人がすぐに紗世の前へ身を入れたが、舟の上は一瞬で騒然となった。


「荷を捨てろ!人の方を先に引け!」


別の舟人が怒鳴る。


しかし若い男は、川へ落ちまいとしながらも俵を離そうとしなかった。


「す、すみません……!この荷は、旦那様の大事な──」


「馬鹿者!荷より命だ!」


荒い声が飛ぶ。


それでも男は、俵にしがみついたままだった。


紗世はその様子を見て、思わず身を乗り出した。


「その荷……っお米ですか!?」


紗世の声に、若い男が驚いて顔を上げた。


「は、はい……」


「濡れても、乾かせば食べられます!でも人は流されたら戻れません!」


舟の上が、一瞬だけ静まり返った。


若い男は目を見開き、次の瞬間、震える手で俵を離した。


その途端、舟人たちが一気に男を引き上げる。


どさり、と舟の板の上に投げ出された男は、荒い息を吐きながら呆然と座り込んだ。


俵は川へ落ち、水音を立てて流れていった。


「……助かった……。」


若い男は青ざめた顔のまま呟いた。


年配の舟人が大きく息を吐き、額をぬぐう。


「荷に命をかける阿呆があるか。」


そう叱りながらも、その声には安堵が滲んでいた。


紗世も、知らぬ間に詰めていた息をそっと吐き出した。


供人が振り返り、少し驚いたように言った。


「女房殿、ようあの場で声が出ましたな。」


「……私も、気付いたら声が出ていました。」


紗世は小さく笑った。


けれど胸の奥では、別のことを思っていた。


(……荷より命)


その言葉は、どこか今の自分にも向けられた気がした。


この旅の先で、何が起こるか分からない。


けれど──


守るべきものを見失ってはいけない。


そう、静かに思った。


揺れの収まった舟は、再びゆっくりと冬の川を下り始めた。


冷たい風だけが、何事もなかったように川面を渡っていった。

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