第134話 最後の夜
───京内・とある寺
「どうやら──
天は我らの味方らしい。」
老齢の男が、ゆっくりと口元を歪めた。
「真砂とかいうもう一人の女房が邪魔だったが……思わぬところで、命拾いしたな。」
別の男が扇で口元を隠しながら言う。
「余計な殺生をせずに済むなら、それに越したことはない。」
老齢の男は扇の先で机を軽く叩いた。
「それで。段取りはどうなっておる。」
部屋の入口近くに控えていた若い武官姿の男が、静かに一歩進み出た。
「はっ。」
男は頭を垂れたまま答える。
「身分の高くない女房一人の道中であれば、供人は二人、御者が一人──多くてもその程度かと。」
「ふむ。」
「たとえ供人に多少腕の立つ者がついていたとしても、こちらが三人もいれば女房一人を攫うことは難しくありません。」
老齢の男は黙って続きを促した。
「場所は、和泉国北部の松林の街道。」
男は旅路を記した紙へ視線を落とした。
「人目は少なく、あの辺りへ差しかかる頃にはちょうど夕刻。」
「……うむ。」
「日が落ちれば、そのまま闇に紛れて姿を消せましょう。」
部屋に短い沈黙が落ちた。
トン──
老齢の男が扇で机を打つ。
「攫う時、目撃した者は一人残らず消せ。」
その場の空気がひやりと冷えた。
「そうすれば──」
男は薄く笑った。
「三条という女房は、帰路の途中、供の者もろとも野盗に襲われ命を落とした。」
静かな声が、不気味なほどよく響いた。
「……そういう噂を流せばよい。」
中年の男が目を細めた。
「なるほど。そうなれば、三条を探そうとする者もいなくなる……ということですな。」
答える代わりに、老齢の男はゆっくりと笑った。
「ただし」
老齢の男は低く言った。
「三条だけは傷をつけるな。」
若い武官が目を伏せる。
「はっ。」
「ぬかるな。」
「承知。」
そう言って若い武官は踵を返し、静かに部屋を出ていった。
───和泉国へ出立する前夜
紗世は、鷹丸の部屋へ呼ばれていた。
「この度、宇治での滞在中は大変お世話になりました。」
部屋へ入るなり、紗世は静かに座し、深く頭を下げた。
「心より、お礼申し上げます。」
その声に、鷹丸は小さく首を振った。
「何を言うか、三条殿。もとはといえば、私がそなたをこちらへ呼んだのだ。」
穏やかな声のまま、しかしその眼差しだけが柔らかく紗世へ向けられる。
「呪詛と病の関わりを明らかにし、病を祓う石鹸を作り、甘露水を生み、さらには湯殿まで考え出した。」
鷹丸は、静かに息をついた。
「礼を言うべきは、こちらの方だ。
本当に……ありがとう。」
紗世は困ったように目を伏せた。
「いえ……私は、私にできることをしただけでございます。」
「あれほどの功績をそのように謙遜されたら、宮中の貴族は皆、ただの役立たずになってしまうぞ。」
鷹丸が小さく笑う。
その笑みに、紗世もつられて少しだけ笑みをこぼした。
けれど次の瞬間、鷹丸の表情に、かすかな寂しさが差した。
「……明朝、発つのだな。」
「……はい。」
短い返事のあと、二人の間に静かな沈黙が落ちた。
鷹丸は紗世を見つめたまま、ふと口を開いた。
「三条殿。初めて会った時のことを覚えておるか?」
「初めて……?」
紗世は瞬きをしてから、すぐに思い出したように目を丸くした。
「和泉国の野でお会いした時のことでしょうか。」
「そうだ。」
鷹丸の口元がわずかに緩む。
「そなたに、見事な頭突きを受けた。」
「あ……」
紗世は思わず肩をすくめた。
「あれは……鷹丸様があんな近くにいらっしゃるとは思わず……決して、わざとではございません。」
慌てて言う紗世に、鷹丸はくすりと笑った。
「分かっておる。あれは私も悪かった。」
そう言って、少しだけ遠くを見るような目になる。
「だが……今思えば、あの時からだったのかもしれぬ。」
「何が……でございますか?」
紗世が首を傾げる。
鷹丸はゆっくりと紗世を見つめた。
「そなたが、私の心から離れなくなったのは。」
紗世は息を呑み、思わず扇を深くかざした。
鷹丸の声は、静かで、けれどどこか苦しいほど真っ直ぐだった。
「貴族家に仕える女房が、顔も隠さず、野にしゃがみ込み、花を摘んでいた。京であれば、無作法だと思ったかもしれぬ。」
鷹丸は小さく目を細める。
「だがあの時のそなたは、陽の光の中で、花の中にいるようで──」
その声が少しだけ低くなる。
「もっと見たいと思った。もっと近くで見たいと思った。」
紗世の胸が、どくんと鳴った。
「気付けば私は、引き寄せられるように、そなたのすぐ傍まで歩いていたのだ。」
「……恐れ多いことでございます。」
紗世はそう言いながら、さらに扇で顔を隠そうとした。
その時だった。
そっと、鷹丸の手が伸び、紗世の扇を持つ手に触れた。
「あ……」
驚いて顔を上げた紗世の手から、扇がゆっくりと下ろされる。
いつの間にか、鷹丸は一歩、紗世との距離を縮めていた。
静かに伸びた指先が、紗世の頬に触れる。
その指先は、驚くほど優しかった。
肩が小さく震える。
「もっと……顔を見せてくれぬか。」
低い声が、紗世の胸の奥へ落ちていく。
頬に触れた指が、熱を確かめるように、そっと撫でた。
「た……鷹丸様……」
紗世はたまらず目を伏せた。
「おやめください……」
「そのように頬を染めるのなら──」
さらに静かな声が落ちる。
「少しは、期待しても良いのだろうか。」
鷹丸は、もう一歩だけ近づいた。
「一目で、恋に落ちたのだ。」
その言葉が、あまりにもまっすぐで、紗世は何も返せなかった。
「……帰したくない。」
耳元で囁かれた声は、切ないほど弱かった。
次の瞬間──
紗世の身体は、鷹丸の腕の中にあった。
「あ……」
抱きしめる腕は強いのに、震えるほど優しかった。
鷹丸の胸に触れた頬から、早い鼓動が伝わってくる。
その鼓動は、紗世自身のものと重なるようだった。
(こんなに私を想ってくれているのに……)
胸が苦しくなる。
(私はこの人に、本当のことを何一つ話していない……)
紗世は、そっと鷹丸の直衣を掴んだ。
「私は……」
声が震える。
「鷹丸様が思うほど、まっすぐな人間ではございません。」
抱きしめる腕に、わずかに力がこもった。
「まっすぐだとか…良いも悪いも関係ない。」
鷹丸は迷いなく言った。
「たとえそなたがどのような人でも──」
低い声が、紗世の耳元で震える。
「私は、そなたと同じ道を歩みたい。」
紗世は目を閉じた。
「いけません……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「鷹丸様は、身分あるお方なのでしょう……。」
「ならば」
鷹丸はすぐに言った。
「その身分など、捨ててもよい。」
紗世は息を呑んだ。
「身分を捨てれば、そなたと静かに季節を重ねられるのなら──」
その声が、あまりにも切なくて、紗世の胸が痛んだ。
(この後、“三条”は消えなければならないのに……)
その時、鷹丸の手が再び紗世の頬を包んだ。
ゆっくりと、その顔が近づく。
(口付けを……)
そう思った瞬間──
「……いけません。」
紗世ははっとして、鷹丸の胸を両手で押した。
そのまま、その手に額を寄せる。
「……いけません……。」
小さな声で、もう一度だけ告げる。
鷹丸は、しばらく紗世を見つめていた。
やがて、静かに腕をほどく。
「……すまぬ。」
かすれた声だった。
「先日は、文や贈り物を届けるところからと申したのに……」
自嘲するように笑う。
「私の想いを、押しつけてしまったな。」
紗世は、何も言えず小さく首を振った。
鷹丸は目を伏せたまま言った。
「明日、早いのであろう。」
「……はい。」
「もう休まねばな。」
紗世は静かに頭を下げた。
「……おやすみなさいませ。」
「おやすみ、三条。」
紗世はそのまま部屋を出た。
簾が静かに閉じる。
廊下を歩きながら、紗世は胸元を押さえた。
まだ、鷹丸の腕の温もりが残っている。
その夜──
紗世は、鷹丸に対する罪悪感でほとんど眠ることができなかった。




