第133話 三条の帰郷計画
───翌日・宇治の古寺
古寺に残る病人は、例の不審な男ただ一人となっていた。
「熱もございませんし、顔色も悪くは見えませぬ。
そろそろご自宅へ戻られてもよろしいのではありませんか?」
看病役の僧が穏やかに告げた。
すると男は眉を吊り上げた。
「何を申す。
熱はなくとも、急に眩暈がしたり、吐き気を催したりするのだ。」
男は胸元を押さえ、苦しげな顔を作る。
「呪詛がまだ祓いきれておらぬのではないか?」
「ですが先日お越しになった陰陽師殿も、もはや呪の気配は無いと──」
「ふん。」
男は鼻で笑った。
「どうせ若い下っ端であろう。
そのような者の見立てなど信用できるものか。」
そう言いながら男の胸中では、別の思惑が渦巻いていた。
(あの女が里へ下がるなら、出立の日取りと道筋を掴まねばならぬ……)
男が古寺に居座る理由は、ただそれだけだった。
その時、寺の門前に牛車が止まった。
降りてきたのは、鷹丸、紗世、真砂、そして陰陽頭。
男の目が鋭く細まる。
(三条……あの顔ぶれが揃うなら、また何か聞き出せるやもしれぬ。)
男はすぐに顔をしかめた。
「今日は特に気分が優れぬ。部屋へ戻らせてもらう。」
そう言って僧の手を払い、足早に立ち去った。
───古寺・奥の間
「今日で、療養のために使っていた部屋もひとまず片付けるのだろう?」
鷹丸が紗世に尋ねた。
「はい。」
紗世は真砂と顔を見合わせ、小さく頷いた。
「新たな病人も増えておりませんし、残る一人も付ききりの看病が必要な様子ではありませんので。
二、三日のうちに、此度のために使った物も片付けようと思っております。」
「そうか。」
鷹丸は寂しげに目を伏せた。
「では、三条殿と真砂殿の役目も終わりということになるのだね。」
陰陽頭はそう言いながら、柱の影へ一瞬だけ目を向けた。
「……いつ、ここを発つのだ?」
鷹丸が静かに問う。
すると真砂が目を伏せて口を開いた。
「それなのですが……
昨夜、和泉より急ぎの文が届きまして。」
「文?」
紗世が振り向く。
「母が倒れたと……。」
「え……?」
紗世は目を見開いた。
「それならすぐ帰らないと……!」
真砂は小さく頷いた。
紗世はすぐ鷹丸へ向き直る。
「鷹丸様。
真砂だけでも先に和泉へ帰していただけませんか?」
「それは大変だ。」
鷹丸は即座に頷いた。
「真砂殿。
明日にでも発てるようこちらで手配しよう。今夜のうちに支度を整えなさい。」
「恐れ入ります。」
真砂は深く頭を下げた。
部屋を出る前、真砂は不安そうに紗世を振り返る。
紗世は静かに頷き返した。
真砂が去ると、部屋に短い沈黙が落ちた。
その後、陰陽頭が口を開いた。
「では、三条殿の帰郷についてだが──」
一度、間を置く。
「護衛に付けようと思っていた源惟成殿が、明日から十日あまり京を離れる役目に入ってしまっていてね。」
「十日も……?」
紗世の顔が曇った。
「さすがに、そこまでは待てません……。」
「そうだね。」
陰陽頭も困ったように頷く。
すると鷹丸が静かに口を開いた。
「あの武官が、そこまで必要なのか?」
「ええ。」
陰陽頭は頷いた。
「数年前、元服して間もなく武芸の才を見込まれ、兵衛志に抜擢された者の話をお聞きになったことは?」
「ああ……あの若武者か。」
鷹丸は思い出したように言った。
「それが惟成殿です。」
「……なるほど。」
鷹丸はゆっくり頷いた。
「陰陽頭殿がそこまで信頼するなら理由は分かる。」
陰陽頭は続けた。
「だが、今回は惟成殿が動けぬ。さて、どうしたものかと思っていてね。」
紗世も静かに言った。
「真砂の母君のこともございます。
できれば私も、早く里へ戻りとうございます。」
鷹丸は少し考え、口を開いた。
「中務卿宮様に頼もう。
信頼できる護衛をすぐにつけてくださるはずだ。」
紗世が顔を上げる。
「本当ですか……?」
「ああ。明日には決まるだろう。」
鷹丸は穏やかに言った。
「三条殿がここを発つのは三日後。それでどうだ。」
紗世は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
───古寺・奥の間の柱の影
柱の陰で、男は息を潜めていた。
(真砂は先に帰る。惟成は京を離れる。護衛は別の者──)
口元が、わずかに歪む。
(……千載一遇だ。)
三条を手に入れるなら、今しかない。
三日。
三日あれば、十分に準備できる。
男は静かに踵を返した。
その途中、先ほどの僧と鉢合わせる。
「……どうされました?」
男は鼻で笑った。
「喜べ。お前の望み通り、ここを出てやる。」
「え……?」
「もう、家へ帰る。」
「え、あ……お待ちくださ──」
僧が止める間もなく、男は足早に古寺の門を出ていった。
───同刻・二条邸
「どこが一番、狙われやすいと思う?」
源氏の君は、紗世が宇治から和泉国へ戻る旅程を書き記した紙を広げた。
惟成はしばらく無言でその道筋を見つめ、やがて一点を指差した。
「ここでしょう。」
その先には、
和泉国北部
と記されていた。
「旅程二日目の夕刻。宿泊地へ入る直前です。」
「だろうな。」
頭中将が一日目の行程を扇の先で軽く叩いた。
「初日は宇治から舟で下り、淀を経て住吉へ入る。あの辺りは人の往来も多い。さすがに手は出しにくい。」
惟成が静かに続ける。
「ですが二日目、和泉国北部へ入る頃には人通りは一気に減ります。」
その指先が、旅路の一点で止まった。
「この辺りには松林の続く街道があります。人目を避けるにはちょうどいい。」
「しかも夕刻か……」
源氏の君が目を細めた。
「和泉殿を攫い、そのまま闇に紛れるには十分だな。」
部屋に重い沈黙が落ちる。
源氏の君はゆっくりと惟成を見た。
「惟成。」
「はい。」
「護れるか。」
惟成は一瞬も迷わなかった。
「必ず。」
短い言葉だった。
けれどその声音には、揺るがぬ鋼のようなものがあった。
誰にも触れさせない。
今度こそ、何があっても。
惟成の瞳だけが、静かに冷えていた。
しばらくして、頭中将が眉を上げた。
「しかし惟成。」
「……何でしょう。」
「陰陽頭殿は、お前に“鬼になってもらう”と言っていたな。」
惟成の眉が、わずかに寄った。
「どういう意味だ?」
ほんの一瞬だけ、惟成は面倒そうな顔をした。
だがすぐ、いつもの無表情に戻る。
「……鬼の如き強さで護れという事でしょう。」
源氏の君と頭中将は疑惑の眼差しで惟成を見た。
(絶対、違うだろ。)
そして二人は同じ事を思っていた。
(終わったら、陰陽頭殿に詳しく聞こう。)




